日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

メンテナンス主義で(2)  「権力」疲れ

 数日前にあったこと。以前から関わっていた企画があって「また何かやろうか」という話になった。その中で「トラブルメーカー」的な1名の扱いをどうするか議論になった。・・と、第三者のフリをしてみたけど、実は自分が「一緒にやるのムリです」と言った人です(汗)。相談した友人から、すかさず「より良い福祉をめざす会で誰か1人を排除していいのか?」と問いかけられて、半日頭を抱えていた。

 まず「たこの木連続講座【出禁】の回でやったやつだ」と思った。「履修済み」なので気持ちに余裕がある。「トラブルが起きたのは、参加者に負担をかけすぎる企画の進め方に問題があったから。その不満が表面化してトラブルになったわけで構造的な問題。つまり運営が悪い」という分析(言い訳ともいう)を導きだした。自分も運営側だったので結局ダメなんだけど、排除する「差別者」から(ぎりぎりだけど)逃れられて上々である。

 最近の連続講座は答えの出ない課題が多い。意見も分かれる。テーマが大きくなるほど準備や本番の対応も大変になるけど、上の【出禁】のように、後から「やっといてよかった」となることも多い。先月の【インクルーシブ教育】もそうだった。以来、「権力」について考えることが多くなった。講演や、講師の野口さんの本では、「教育」そのものと同じくらい「多数派の特権を自覚しよう」の分量があった。

 ただ、一方で「また権力かぁ」と、うっかりため息が出て「今の聞かれてなかったか」と周囲を見回す自分もいた(゜Д゜;≡;゜Д゜)

 20年前に脳性まひの友人と知り合って「青い芝の会」の本を読んで『健全者は差別者であると自覚せよ』と書いてあった(と思う)。また、初期の自立生活運動の本を読むと、「差別者」とまでは書いてないけど「健常者が対価を求めずボランティアベースで介助するのも致し方ない」的なことが書いてあって、とてもシビれた。制度のない時代に生活を維持するためにひねり出した「理屈」だったはずだが、体系的に読んでないので30年前の本の内容が「今の福祉業界の現実」になっていた。そうか、健常者であることの「贖罪」のために奉仕しなければいけないのか。なるほど・・いやキツいよ。

 その頃は、権力や特権とは言われなかったけど同じことだったと思う。青い芝の横塚さんの「母よ殺すな」が再販されて、読んでみたら印象が違った。行動綱領の「信じ、且つ、行動する」みたいな直訳調は(そりゃもちろん)なく「温かさ」まで感じる文章だった。横文字や「運動用語」も少なかった気がする。伝わる言葉で、どうにかして伝えたいというのを感じた。今歴史を少しかじってみると、居ないと生きていけない支援者たちと対立関係にもなるという苦しい立場から出てきた言葉だったんだろう。とにかく、「激しい言葉」と、「激しさを秘めた、穏やかな言葉」があるってことを知った。

 その「健全者の原罪」を、自分なりに「克服」したのは自立生活の介助をしてから。贖罪も奉仕もしてない。CILの非常勤の介助者たちが、すごく弱々しく見えた。同僚のはずだが、集まることは少ないし、多くは顔を見ることもない。いつの間にか辞めていって、話題に上ることもない。自分の「底辺労働者性」に目覚めて、罪の意識が軽くなった。まー当事者はどうしたって大変だけどね。でも「絶対的な差別者」であるのと、一部「お互い様やん」と言えるかでは大きな違い。

 何が書きたかったかというと、自分が男性の健常者でいると、何かと「原罪」を意識してしまうけど、罪の意識だけでは続かない気がするから、自分なりの向き合い方を見つけた方がいいと思う。定期的に新しい「権力」が発見されて、その都度「再逮捕」されて留置所からなかなか出られない。態度や行動を見直しつつ、連帯し一緒に声をあげつつ、アラを探してたまには物申しつつ。自分の役割は、そういう「ゆるい原罪との向き合い方」を広めることかもしれない。

 ここまでは自分が権力=多数派に所属してる話。国や行政、大企業などを相手にした「権力との付き合い方」もある。「大きな構造に問題がある」という切り口では、どちらも同じだと思う。この「権力構造で世の中を見る」視点は、この仕事をしている以上、周囲にあふれている。運動で勝ち取った制度の上で自分はメシをくっているし、周りを見れば「運動」で溢れている。すこーし疲れてきた。

 たこの木での話を書きますが、他の人について書く勇気がなく、岩橋さんだと書きやすいだけです。「取り込まれるのはどっち」論争。ある運動体が「権力に近づいて影響力を持つが、権力に取り込まれて変質してしまう」、そういう問題意識。連続講座でもいろいろ実例を教えてもらった。でも外野の自分から見ると、ただでさえ少ないプレーヤーが、全部ではないけど、お互いに同じことを言っているようにも感じる。「あそこは取り込まれた。そっちは運動の本質を外れた」、そうして権力サイドから見て扱いやすいミニサイズにバラけてしまうことは似たようなものにも感じる。絵の具のように染まるか、印刷の目に見えないドットのように肉眼で見えなくなるかの違い。

 ウクライナ戦争、パンデミック地球温暖化、今もっとも理解して対処したい問題に「権力の視点」は機能しているか。突然何?という話だけど、一応つながってるつもりです。コロナ1年目、緊張感がずっと高かった時期に、「対策できない当事者もいるから、当事者に安心してもらうために自分も対策しない」的なことを岩橋さんが言う。国の画一的な指針、「できる人」からの同調圧力など「権力の視点」から見れば、その態度もありかもしれない。湧き上がる違和感。付けたくないマスクを付け、打ちたくないワクチンを打って、身近な人が苦しむことがないよう犠牲をはらった人が周りに何割以上いたから、健康で、そういうセリフを言うことができている。

 「それこそ権力側の思うつぼ」的な反論も可能だとは思う。でも、現代の課題の「重心」は変化していると思う。あらゆることが影響しあって、何万キロ離れて何の縁もない人々と、フェイクニュースとウイルスとCO2を介してつながってしまった。今も「一つの視点」ではあるけど、それでしかない。「ふつう・あたりまえ」を疑う、事象や個人でなく構造に問題を見出す視点は多くの不平等を正してきた実績がある。けど、権力=巨悪を設定して、その関係から理解していく方法は使いどころによっては「陰謀論」の人たちに近づく気もしてる。どうにも難問で不安にかられると、人はそっちに行きやすいと思う。

 でも、権力と戦ってくれた人たちのおかげで、ずいぶん生きやすくなった。昨日スーパーを歩いていて思った。昔は休みの平日に何かの窓口に行くと挨拶のように「今日はお仕事は?」と聞かれた。今は気兼ねなく平日にうろうろできる(通報されない程度に気兼ねはする)。パートナーの有無も年齢も聞かれなくなった。ああ、それは関心がないのか