日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

介助者を6年やってみて(12)  誰も悪くないのに、お互いしんどい

 ルールが細かく決まっていて、きっちり指示をできる利用者の現場は、独特なしんどさがある。ハラスメントとかしない人格者であってもそうなので、申し訳なく思うこともある。自分が薄まっていくような感じがする。失われる「自由意志」みたいなものを補うためにいろいろ工夫した。

 5分くらい何もせずじっと待つ時間が苦手だった。以前の通信に「片足つま先立ちしながら耳掃除をしている」と書いた。片道8kmを通勤ランしたのも、その「自分補完活動」の一つだった。ただ、公園で汗を拭いても、やっぱり走ったら衛生的でないし、静かな屋内では筋肉ってわずかに「機械音」がするんですよね。グイグイみたいな。さらに、声かけられた時にヨガみたいな格好をしていたらすぐに動けない。

 広告などで「パワーブリーズ」っていう「息を吸いにくくする」器具を見かけた。B'z の稲葉さんが使ってる。細いストローで吸うように呼吸に負荷をかける。買うと1万円だけど、手を口に添えてやると似た感じになる。10回くらい本気でやると肺活量が増えてインナーマッスルまで鍛えられるらしい。ヘルパーの裏の「奥義」を体得してしまったかもしれない。姿勢を変えずに、すぐに次の動作に移れる。次は「瞑想」くらいしか残ってないと思って呼吸法とかを調べ始めたが、現場が変わって「道の追求」は休んでいる。

 その昔、入所施設の職員として利用者の意思や人格というものを二の次にしてきた【罪】を「奪われる側」に回ることで償っているのだ、と言い聞かせていた。そうでもしないとしんどい時もあった。筋トレもせず、贖罪のファンタジーもない同僚たちはどうやって乗り切っていたんだろう。難しいのは、どう考えても利用者の方が大変そうなことだ。障害や病気のことではなく、10人20人と有象無象が自宅に来て、何割かは私のように行動が不審で、何%かは自分の安全に関わる素質を持っているかもしれない。どちらかが不正をしているわけでもなく、どちらもしんどい。

 精神的に波のある人の現場も似たしんどさがある。罵声を浴びてツライという直接のものではなくて、じわじわと感覚が狂っていく。今関わっている青年はトラウマ体験を重ねて、いろいろやってみるもフラッシュバックが起きて挫折を繰り返してきた。何かつまづくと、その原因と責任がどこにあるかにこだわる。自分のせいなら自分を責めて自傷する。ヘルパーや他人のせいだと見なせば罵詈雑言の嵐となる。外に出て、思ったより暑かったら「伝えなかったヘルパーが悪い」となる。理不尽に失敗を責められてきた経験がそうさせるのだろうと、また当時彼を傷つけた相手に向けた言葉なんだろうと、脳内の福祉の心・良心がささやく。一方で「受け止め切れない」のも事実で。。関わる人を増やしたり、傾聴したり、時にはかわしたりしてはみるものの難しい。

 ある時、本人が勘違いしたけど何とかなった、ということがあった。一通り済んだあとで「確認しなかったアさんが悪いから殴ろうと思ったけど我慢した」と言われて答えに困った。「よく我慢できたね」と評価する気持ちにはなれないし、否定しても、本人は本気で言っているのでこじれる。数秒悩んで出てきた言葉は「あぁ、、おぅ」とだけ。
 認知症の「物盗られ妄想」は、物忘れがひどくなって、昔のように記憶したり探せなくなったことが受け入れ難く、「盗られた」ことにしてその辛さを回避しているという解釈がある。彼にも当てはまるし、傷つけられてきた人たちの多くは「責任」という実体の無いものを負わされて無理をしてきて、いろいろな場面で「自分か、誰かが責任を負わないといけない」という考えに囚われがちなのかと思う。

 受け止めるのが基本なんだろうけど限界がある。PTSDの本を読むと「その怒りは当時傷つけた加害者に対するもの」と書かれていたりするけど、それは自分やヘルパーではない。最初に挙げた身体の当事者の場合だと、自分が「意思のないロボット」であることを求められるしんどさがあった。こちらの場合は「サンドバッグ」として吊られるしんどさというのか。それを押し付けてきた社会の一員として、今回も【罪】を償うべきなのか。

 最初の「ルールや指示の厳しい現場」については考えがある。そういう現場は、実質として「派遣労働」の関係になっていると思う。

派遣労働:派遣元企業が自己の雇用する労働者を、派遣先企業の指揮命令を受けて、派遣先のために労働に従事させることをいい、その特徴は、指揮命令者である派遣先(ユーザー)と派遣労働者(スタッフ)の間に労働契約が存在しない。

 利用者は会社じゃないので法的には違うんだけど、「使用者」の立場だとみなせると考えている(介助経験者は異論ないのではないかと)。そうなるとパワハラ・セクハラは当然許されないし、労働者の心身の健康を害するような環境は正されないといけない。

 最近自分は「アクセルを効かせるためにもブレーキが必要」と言いたい人になっていて、利用者の意思や権利を尊重するためにも、行き過ぎないために、同じ(労働者の)権利をぶつけるのがいいと考えている。本人の権利や意思は他の干渉を受けにくい概念なので「運動」の場面ではそれが効くけど、生活の場面では使い勝手が悪い。

 精神的に波のある人の支援に「労働者うんぬん」は当てはまらない。ブレーキにあたるのは、「これ以上はできない」という線引き(専門用語があったけど何だっけ)だと思う。線引きを明確にしておく。また、むちゃくちゃ言われたあとでシュンとして謝られると妙に情が湧くこともある。「DVの被害者ってこんな感情なのか」と思った。加害者も事情があろうけど、全部受け入れると本人も歯止めがかけられない、という「イネイブリング」を回避するためでもある。フラッシュバックは確かにつらそうだけど、ヘルパーは「当時の加害者」ではない。ぶつける相手はヘルパーではないはず。責めるのではなく、でもちくちくと事実確認は入れていかないと。それで嫌われることも多いけれど、「許容量」は多くないし、サンドバックでも、バッティングセンターの球でもない。

 「誰も悪くないのに、お互いしんどい」たこの木もそれかもしれない。自分の「たこの木病」は、最近では「末期」まで進行してしまったようだ。いろいろ諦めたくなってくる。ただ、上で出てきた青年との付き合いで身についた「トラウマのめがね」を通すと、岩橋さんにも「何かそうせざるを得ない過去の痛みや束縛」があるのではないか、と考えるようになった。何でもトラウマに当てはめて見てしまうようになってしまった。そうすると「仕方ない・すぐどうにかなるものではない」、で結局、もっとどうにもならない。

 どうにもならない、で今回終わってしまったので、次はより前向きな話か、最近はまっている「ソロキャン」のことを書きます。