日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

介助者を6年やってみて(8) 施設職員列伝 

 昔の職場の「相談員」が、どうにも「いけ好かない」人で、相談員に偏見を持つようになった。当時は、個別給付の相談支援というものが無く、行政から広い区域ごとに委託されるだけだった。大きな法人の中のベテラン職員しかなれないエリート職だった。最新の制度の情報が入るし、役所の人より現場のことを知っている。威張りたい人がなればマウント取り放題。残念なことに、法人一の「マウンティング猿」氏がなってしまった。

 東日本大震災のときに「専門職派遣」として、そのマウント猿が被災地に何日か行った。職場の飲み会で「普通の支援者じゃなくて専門職として、一定のレベルがある人間として呼ばれた」と、聞いてないことを強調していた。当時は「すごいんだね」と受け取っていたけど、今考えると、こんな恥ずかしいこと普通じゃ言えない。どうかしてる。

 「キミたちには分からないだろうけど」という雰囲気を漂わせて有能さを演出していた猿氏だが、ふとした時に「福祉の仕事に行きついてしまった」という発作に襲われる就職氷河期世代にとっては「力を付ければ、専門職としてあんなドヤ顔ができるんだ」という「夢」を見せてくれた。

 最初の就職先だから印象が強くなるとはいえ、当時の上の人たちが忘れられない。魅力はないし好きでもないが「強さ」があった。小さな施設でも利用者と家族と職員の関係が濃いし、お互いの依存関係が複雑で、1つ動かすと影響が全体に及ぶ。そこは、小さくても大病院や大企業より面倒な面がある。やはり「剛腕」が必要なのだ、ぼくには無理だ。そして、濃縮されていただけで、どの福祉職にもある「業」のようなものなんだろう。

 施設長は「パワハラ番長」。そんなに強くは無いので番長クラスだけど、多忙で余裕がないと「辞めてもらっても構わない」とサラッと言ってしまう。一度「パワハラではないですか」と物申したら、取り乱して、奥から就業規則の紙を持ってきて「戒告処分」について長い講義が始まった。「男性棟の支援がなってない」という問題が持ち上がり、施設長自ら、基本的にアルバイトが入っている「遅番」をやって改善することになった。

 帰るまで数時間、ダメ出しと嫌味を聞き続けるのか。心底嫌だったが、始まるとそうでもなかった。利用者といるときは表情がまるで違った。褒めはしないがダメ出しは最小限だった。利用者さんも喜んでいた。昔は、楽しくて頼れる利用者の人気者だった。役職が上がり、法人理事長は飾りだったので、ほぼ法人代表として多忙にしていた。現場の改善という名目で、現場に入りたかったんじゃないかと思う。これでは憎めない。

 番長の裏の権力者が強烈なモラハラ大王だった。部下には明るくハキハキした人を採用するみたいだった。数ヶ月で表情が無くなり、1年も経つとメンタルクリニックに通っていると噂が立つ。部下だった以前の同期が辞めることになり「あの部署じゃ大変だったでしょ」と声をかけたら「あの人は悪くない、良くしてくれた、自分が悪い」と自分を責めながら辞めるところまでパーフェクトなサイコパスだった。

 良い所ゼロに見えるが、この法人で2人だけ尊敬する人のうちの1人でもある。有能なサイコパスなので、人を支配するのも含めて「事業」の立ち上げから運営まで上手だった。でも、こういう「強さ」が必須というのは良い事業・職業じゃないと思う。入所が無くなるといい、と思うのは福祉的な理由もあるけど「良い職業」になってほしいのもある。