日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

介助者を6年やってみて(7) たこの木小学校「国語」 

 Y先輩による会議の案内メールがシンプルを極めていて「労力を使わない」ことへのストイックさを感じた。小学生のころの「漢字ドリル」を思い出した。部首と作りを分割して書いた。「頭」だったら豆豆豆豆、頁頁頁頁。ただ速く書くのだと、それなりに頭を使うので分解した。そんな、好きじゃなかった「国語」を、今たこの木で学んでいる。

 日本では精神科の長期入院、入所施設の入所数が多すぎる。でも、地域で支えられない「大変な人」がいるから。そう話す人の「大変な人」は、実際よりかなり多く見積もられている気がする。実際の「大変な人」は数%か多くても1割という実感だけど、それはなかなか伝わらない。大変でもない、逆に24時間テレビに出るような「キラキラ」してもない大多数の人たちは目立たない。いつまでも「ズレ」が埋まらない。一番大事なところ、一番大きなボリュームのところが見えない。

 自閉症の様々な分類が「自閉症スペクトラム症」に統一された。高機能とか、何とか型と区切ると連続した全体像が見えなくなる。これはいいよ。何かと分派対立しがちな我らがリベラル民には「自由主義スペクトラム」が必要かもしれない。調べて面白かったのが、医療的には「分類したい圧」もあって、 “ICD-11” の改定案では、「自閉スペクトラム症、知的発達症を伴う、かつ機能的言語の不全がない、または軽度の不全を伴う」という新病名(組み合わせで+5,6個)が提案されてる。シンプルにまとめた後の「反動」がすごい。何かを的確に表しつつ、ちゃんと伝わる言葉は難しい。

 「たこの木は遠くの人からは良いんだけど、近く(スタッフ)の評判悪いんだよね」と、岩橋さんが話す『現象』について。距離が近くなると「こんな人だったっけ?」と見方が変わってしまうことが、岩橋さん相手だけでなく何度かあった。自分が勝手に幻想を描いていたのか、と頭を抱えることもあった。最近になって、これは支援の話でも、岩橋さんの話でもなく「国語」の時間だな、と思うようになった。離れて見ていると最終的な結果や発言しか見えない。多くの部分は見えないし見えてなくていい。その人のことを知っていれば好意的に「補完」して理解する。誤解も生むけど、それ以上に、小さなアイデアが一気に広がって社会を動かすこともある。使いようだと思う。

 たこの木らしいアイデアは、安易な方に流れない、強い信念を持っていると感じる。離れて見れば。凡人であれば、たくさんの利害関係や矛盾を前に気持ちが揺らいでしまうところを「あえて」厳しい道を選択している。ように見える。寄って見ても「たこの木流」の魅力は変わらない、けど「あえて」そうしてないことが分かってしまった。「利害関係や矛盾」は元々眼中になさそうだ。それが見えない分厚い装甲つきの戦車で、近くのものを踏み潰しながら突き進んでいる。

 「運動は引き継がれるのか」というテーマにも繋がると思う。かつての運動のリーダー達の活動は「間接的」に社会を動かしていたのではないか。姿の見えない大きなボリュームを持つ人たちが、リーダー達の言葉を自分の「望みや痛み」に重ねて、好意的に「補完」したからこそ社会が動いた。望みや痛みは時代や属性で変わる。ささいな違いに見えるけど、「直接」社会を動かしたのであれば数十年前と同じやり方を今もすることになる。間接的にしか働きかけられないとなれば、やり方も使う言葉も変わっていい。