日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(56) 沖縄日記(13) たこの木「原理主義」1.5/2

進撃の巨人」読みましたか?面白いですよね。序盤のハイライト、特大の裏切りが明かされる場面。読者も知らなかった秘密に、主人公たちも僕も絶望した。そ

のライナーとベルトルトの告白は、危機の合間の弛緩した時間の、空は晴れ、日のまだ高い、何もかも「そぐわない」時に、雑談に混じって聞こえてくる。狂気を感じた。

ある当事者が、暴力で地域生活の危機にあったとき、会議というか介助者のオンライン雑談会があった。

「一対一だと無理だね。何人かで見ないと」

「入所施設でスタッフが何人もいれば、逆に強い対応しなくて済む。そういう意味で入所が合う人はいるかも知れない。ちゃんとやってる所もある」

・・えっ?聞き間違えたか?それは言ってはいけない約束じゃないの。

雑談交じりに話していて、誰も止めたりしない。狂気を感じる。タブーを犯したら「思想警察」のスパイがいて、Zoomの映ったノートパソコンを叩き割って「ケガレじゃケガレじゃ」と叫んで全員のパソコンを初期化するんじゃないか。

施設職員から転職するときに、入所にまつわる一切のことを封印した。「自立生活の国」に移民するにあたり「入所=悪である」だ、と反射的に返せるように訓練していた。でないと思想警察的な人に吊るしあげられる。

それだったので、介助者仲間が自然に話すのでびっくりした。自分が原理主義者になっていたようだ。ちょっとセルフ洗脳が解けて思った。じゃあ入所にも良いところがある、というのでは全くない。ただ、入所なりの暮らしがあった。

入所という「概念」でなく、それぞれの暮らしの集合でもある。あと、人が人のケアをすれば必ずどこか歪む。依存し支配し搾取も起きる。入所で起きる悪い関係のほとんどは他のスタイルのケアにもある。「入所 = 悪」にこだわると、自分たちがしていることが見えなくなる。矛盾を取り繕うために敵をもっと悪に仕立てる。そのうち傍から見て浮世離れしてくる。よくある気がする。

労働者として。施設では、頑張るほどお互いに害になる実感があった(だから頑張らなかった、という言い訳にしている)。頑張るということは、より囲い込み、うまく管理し、中の暮らしを充実させることだ。職員の見方は偏り、利用者は「なんとか園の人」になる。

一方の介助者は、頑張ってもいいし、何も「しなくても」マイナスにならない。なんていい仕事だ。オンライン会議での入所肯定発言も、そればっかりになると良くない。効率よく管理しようとする圧力はすごいから、理念をもってまとまらないといけない。でも少しの「遊び」がほしい。割合として5%か1%か。理念に反することも入れる。「分からない」と投げてみる。割合が増えすぎないかだけチェックする(それが難しい)。

入所が合う人もいるんじゃないか。現状12万のうち100人くらいいるかも知れない。フィットの会でやっている加害者の支援。どんな人でも支援すべきなのか。性犯罪など地域に「戻すべきでない」とされる場合もある。自殺幇助の事件。現実に「自殺する自由」はある。逆に「真の自由意志は存在しない」と考えるのも自由。それが強制された選択肢だったとしても。外に発信するのは「断固反対」でも、内輪では「突き詰めるとわかんないね」と話してもいい。とかね。