日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(54) 沖縄日記(11)言い方に気をつけよう

原爆の日」が近づくと思うこと。「投下は正しかった」「(本土決戦した場合の)100万人を救った」と言わないでくれないか。代わりに、例えば「仕方がなかった」を使う。「あの時期、あの状況下では」やむを得なかった、と前提をおいてもいい。

もちろん「主張するなら言い方に気をつけろ」というのは大変嫌われる(トーン・ポリシング)。それで原爆の「加害者」を例にした。ここで被害者や差別を受けた人を例に出したら、誰も先を読んでくれない。

「確固たる信念や主張が、ない」というコンプレックスがあった。沖縄と関わりができて、それを克服できないかと密かに考えた。数え切れない「難題」が世界にはあるけど、身近で議論は比較的オープンで参加しやすいと思う。連載に出てきた保守的(人権至上主義でないという意味での)な人たちと話すことで、すこし芽生えた信念や主張が「更地」に戻った。

それぞれの立場での議論や交流がほとんど無く、悪いイメージが膨らみ続ける。それぞれの「正義」をぶつけ合うのは、年々「効率」が悪くなっている。情報の伝わり方が変わった。前後の文脈は切り取られて「強い言葉」だけが拡散する。

具体性は乏しいのに感情を揺さぶる言葉。「正しい」とか「国益」、、「人権」も入るんだろうな。それがSNSの「エコーチェンバー」と呼ばれる。より偏った考えが強化され多様性が失われる。

「分断」は、勇ましすぎてこれも無駄に強い言葉。じゃあ元は一つだったの?「離島と海峡」が合う。話題になった『サピエンス全史』のハラリさんの新作を読んでいる。今は、リベラリズムの3度目にして最大の危機だという。

リベラルに1つの定義はない、とも書いていた(うろ覚え)。自由貿易、民主主義、人権主義を含むが、その分量は自由。リベラルの「レシピ」は自由だそうだ。ぼくの解釈では、自由と平等の2つが、お互いブレーキを掛け合っている。「自由経済自由貿易」もリベラルの要素の一つだが、暴走すると搾取が始まる。それを平等・人権主義が止める。

先の米国大統領選の情報操作のように、情報テクノロジーによって民主主義が歪められている。次は、脳科学とAIで感情が操作できる。その次は、バイオ技術で「優秀な人間」が生まれる。これらは遠い「空想未来」ではなく、十年単位でスケジュールを切れるくらい明確で短い予測だ。生きている内に出くわすことになる。「人間は平等」というリベラルの大前提が崩れる。

・・これは脱線しすぎた。自衛のためにも「感情を揺さぶる強い言葉、主張」には気をつける必要が出てくる。僕のような主張の乏しい人種には「居心地がよくなるかも」と密かに期待している。正義と悪、敵と味方という分かりやすい二元論は、いずれは、旧世界の風習や宗教のように廃れていくかもしれない。病気の理由は「敵の呪い」だとか、災害は「神の怒り」という風に。

原爆の例でいうと、当時を語るのは体験者や遺族よりもずっと後の世代が多くなった。「当事者性」の強い人は、言葉を選んでいる余裕はない。生の言葉でいいと思う。でも、僕らの世代は言葉を選べる。2回の原爆投下は「人体実験」にしか思えず気分が悪くなる。でも加害者にも、それぞれの「正しさ」があったことも理解できる。「仕方なかった」であれば、それ以上切り取れない。絶対的な正しさを言わなければ問題を共有できる。

いつも似たようなものだが、今回は何を書いているか分からなくなった。すみません。