日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(49) あらばしり(4) 答え合わせ

一昨年の12月30日に事故を起こして1ヶ月入院していた。翌日は大晦日で、朝からCILの介助が入っていた。折れたアゴのまま最初に電話したのは、そこのコーディネーターだった。年越しの泊まり勤務は、利用者が旅行に行くので休みになった。なので「大家さん」と年越しする予定だった。いつもアポ無しか直前連絡なので、事故の連絡をする必要はなかった。大家さんは必ず家にいるし、歓迎してくれる。

気になっていることがある。事故ってなければ、会えたのか。事故から半年以上過ぎた8月に訪ねると不在だった。12月も居なくて、入院でもしてるのか聞いてみようと、隣と向かいのインターホンを鳴らしてみた。知ってる人はいなかった。

この2月に再び寄って「連絡ください」と置き手紙をした。帰ろうとしたら向かいの住人が通りかかった。大家さんは亡くなっていた。自宅で倒れているのが見つかった。ずいぶん前だという。「何年も前」というから1年じゃない。2年間は必要だろう。時期が知りたい。何度か聞き直したけど「記憶があいまいなくらい昔だ」という口ぶりだった。

大家さんは変わり者だったけど、お向かいさんとは何十年の顔なじみのはず。話しているのを何度か見ている。もう聞くのをやめた。1年5ヶ月前は元気だった。ササの駆除を手伝ったら、車で10分ほど先の「松屋」で焼肉定食をおごってくれた。

「大家さん近住」が好きである。「寮」生活もそれに含めれば、親元を出てから30年のうち5年を「のぞいて」大家的なものが近くにいた。学生寮や下宿、シェアハウス、高齢施設に組み込まれた部屋ということもあった。フィットの会のKだまさんもその一人。

氷河期世代の独身男がフラフラして危険な「無敵の人」という世間のイメージ、に被害妄想も混じっている。振り返ると、大家さんを通して適切な社会との距離を保っていたとも言える。シェアハウスは合わなかった。家庭を持つのは経験がないけど、「近すぎる」のかもしれない。実は高度な社会性なのではないか(これはまた別の妄想だ)。

マンガ「大家さんと僕」を見つけて「同志がいたぞ」と手にとったけど、あれは違った。まず「変な家」に住みたい。住宅や車といった「資産」は、広さや価格で比べられる。それは人としてランク付けられるような怖さがある。ぼくのように「変わり者」と呼ばれる人間は、比較されないポジションを無意識に選んでいる。比較できると価値がないのがばれる。

学生時代、確実に授業に出席するための機能と「相対化されない」住まいとは何かを真剣に考えた。トヨタのバンに畳を敷いて約1か月暮らした。大学の駐車場で寝起きすれば遅刻はしないだろう。物理的に大学にいれば出席のハードルは限界まで下がるはずだ。

寒くなって、コンパクトでコストのかからない暖房を真剣に考えて「火鉢に練炭」を導入した。深い思索の結果が「状況的に自殺」だと、やってから気がついた。すべてやめた。

アパートでの2年間は「お風呂」を中心に動いていた。温泉宿のような、「千と千尋の神隠し」が近い。アニメを観て大家さんを偲ぶのもありだ。大家さんは「湯婆婆」だ。内見の日に、大家さんが現れて入居を勧められた。でも、30代中年風呂なしはつらい。6:4くらいで断ろうと思った。大家さんが席を外したので見てまわる。玄関を開けると床の感触がおかしい。来るときもそうだった。床に「取っ手」が付いていた。こっそり開けた。「床下収納」には、前の住人の靴のダンボールやゴキブリの死骸でもあるか。そう思って開けたら予想外の光景だった。

台所の流しとガスコンロ、奥にはコタツが見えた。大家さんの家に直結していた。共同風呂には垂直に近いハシゴを下りて行く。はじめは毎日のように大家さんから電話がかかってきた。午後、屋根の太陽熱で温めた湯を入れたころに。数分おきに5,6件着信が残っていて、留守電が入っていた。「お風呂入ってくださいね。お湯が冷める前に入ってくださいね。お願いしますよ!」「今の人は、お風呂入ってくれないんですよ」

昔を懐かしむ。女子学生が多かった。どうしても結びつかない。天井の一角が開いて女の子が顔を出す。「くノ一」だろうか。ハシゴで台所に降りると、なぜか常に中華鍋のお湯が沸いている。常に、というのは大家さんがいてもいなくても沸いている。コンロの安全装置が鳴るので、それを止めてから風呂に向かう。帰宅するとき家が燃えてないかいつも心配だった。大家さんの定位置の真後ろを通る。あいさつして少し話すこともある。基本的に紳士だ。でも夏は「半裸が普段着」の大家さんと女の子を想像できない。

大家さんの尊厳のため濁すけど、きれいな部屋ではない。台所は何か悪いものを製造してそうだった。居間は、そこそこ「汚部屋」の住人である自分にとっては「なぜこうなったか」経過を追える様相だった。ただ、将来、独身独居の行き着く先がこれか、と我が行く末を思って震撼した。

「くノ一」ではない、別経路の部屋に留学生が入ることが多くなった。ほぼ女子なのは大家さんの趣味だろう。トラブルが多かった。ほとんど風呂がきっかけだった。毎日入れ、朝入るな、音を立てるな、入らないのは不満でもあるのか、入らないなら出ていってくれ。

女子たちは怖かっただろう。でも安くて「留学生歓迎」の賃貸は少なく、部屋が空くことはなかった。風呂以外は縛りがなく、風呂以外は気さくで面倒見のいい大家さんは頼られてもいた。電話代が払えない留学生に、スマホを新たに契約して貸すこともあった。「風呂ハラスメント」に対し留学生が団体交渉に来たことがあった。言い争うのが収まってハシゴを降りると大家さんが肩で息をしていた。持病の高血圧のせいではないか。

事故の一年前には退去していたが「隔週」くらいで「帰省」して風呂に入っていた。ある時、連絡してから行くと風呂場で大家さんがうずくまっていた。風呂の操作で発作が出たのかもしれない。すぐに回復したが足が遠のいてしまった。その後は松屋に出かけたきり会ってない。

最近、弟さんから電話があった。あの大晦日には「会えていた」と知った。ぼくが入居したころから認知症が進んでいたそうだ。その大晦日の数日後に車で出かけて迷い、警察に保護されていた。

いわゆる「孤独死」ではなかった。介護を拒否し独居にこだわった。家柄が良いのか「琴」を弾いてくれたことがある。「ケアマネの前で演奏して追い払ってやった」と自慢していた。兄弟と市役所の人が交代で訪問していた。発見したのは市役所の人だった。

意外にも弟さんに「いつか会いましょう」と誘われた。晩年の様子をご家族は見ていない。話を聞きたいという。4月の命日が近づいたら連絡してみようと思う。