日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(43) 沖縄日記(6)

来年3月の7、8の土日に沖縄・伊江島にて学習会があります。参加しませんか?近くなったら再告知します。土地返還闘争のリーダー、阿波根昌鴻さんの遺志を継ぐ人たちが主催です。

阿波根さんたちの運動で、島の半分を占めていた軍用地は一部返還されたが、島の面積の35%に残る。村は基地との共存を選んだ。表立って反対する人は少ない。予算60億の村で、基地関連のお金が約6億(ウィキペディアのデータをざっと計算)入る。年間14億の借地料が軍用地主に入る。

目に見える、実感のある手助けや償いをしたくてお金を渡す。一方で、金を握らせて「黙らせる」こともできる。またまた一方で、貧困は安心も希望もうばう。わずかのお金で前に進めることもあるだろう。

安定の長い前置き。書く自信がない。「どちらが正しいか」では見えてこない。一筋縄ではいかないということ。沖縄戦では、住民の「集団自決」によって1,000人という犠牲が出た。一部は「軍の命令」で行われたとされた。もともと「投降」は、情報を漏らす利敵行為として厳しく処罰されていた。実際、久米島では米軍に通じたとして住民ら数十人が「処刑」された。「集団自決」最大の犠牲者が出た渡嘉敷島の事件では、複数の生存者の証言で軍の命令があったとされた。

命令した梅澤少佐は復員できたが、当事者になっていることを知らなかった。知った時には「軍は住民を守らない。それどころか殺す」実例として広く知れ渡っていた。教科書にも載った。梅澤氏の反論があり、事件を扱った大江健三郎も巻き込んでの大スキャンダルとなった。

証言が撤回され、梅澤氏は住民から依頼された「自決」への協力を断っていたこともわかった。80年代、「ガス室はなかった」や慰安婦問題が再発見されたりと、歴史を捉え直す動きが始まっていた。梅澤氏の名誉と遺族の心情だけでない、「右と左」という「観念上の争い」に当事者は巻き込まれてしまった印象がある。

もし命令があれば、戦傷者戦没者遺族援護法、通称「援護法」の「準軍属」として遺族給与金の対象となる。軍人恩給に準じた月10万円以上の年金だ。「カネ欲しさに嘘をついた」と非難された。反戦平和運動を疎ましく感じる人たちには、格好の否定材料になった。なぜ本当のことを言わなかった。そして、十分に調査しなかったのか。何より、軍から止められても悲惨な「自決」に走ったのはなぜなのか。

終戦から8年がたち、公務員の「恩給」を拡大した形の「援護法」が整備されていった。「空襲に備えて軍の補助をした者」にも補償ができるようにした。遅れて、沖縄戦の調査が始まる。最前線において住民が巻き込まれた悲惨な戦闘では、従来の「軍の任務を補助した者」という定義が当てはまらない。食糧や、避難していた洞窟を軍に提供した者、そして軍の指示により「玉砕=自決」した者も「戦闘参加者」という新たな項目を作って「準軍属」とした。戦傷者の会の訴えに応え乳幼児も加わった。「対馬丸」の遺族にも手厚い年金が払われることになった。

当時の雰囲気までは分からないが、沖縄を売り渡すような形で主権を回復し、復興の兆しが見えてきた1953年のことだ。適用範囲を最大限に広げて沖縄の苦しみに報いようとしたのかも知れない。それは、対象者から聞き取る調査員の姿勢にも表れる。食糧を取り上げられた(徴発)という証言を「軍に提供し協力した」と読み替えたという。地上戦のさなかでは、あらゆることが軍の作戦に関わっている。

対馬丸の少年少女たちは靖国神社に合祀された。広い意味で、軍に協力し国のために命を落としたから。望まない靖国神社への合祀をされたと2000年代に入って大阪や沖縄で訴訟が起こさ れた。裁判では負けて、これも右寄りの人の攻撃材料になっている。援護法と絡めて「軍命令をでっち上げた結果、金をもらって靖国に入ったのに賠償せよとはヤクザの手法だ。反日だ」と、ネットに限れば彼らの「すべらない鉄板ネタ」になっている。

渡嘉敷島では、村の助役が自決を先導したという。「玉砕せよ、と梅澤隊長に言われた」と住民に呼びかけた。その方は亡くなって本人の証言はない。ただ、梅澤氏と生存者双方が証言している。

ひめゆり学徒隊」の高校生たちも靖国にまつられている。糸満市の資料館を見て、彼女たちこそ靖国にふさわしいと不謹慎にも思った。もちろん彼女たちをそう仕向けた構造には大反対だ。突然に学徒隊の解散を告げられ最前線に放り出され、一気に死亡率が上がった。彼女たちは解散命令をどう聞いたか。「最後は兵士と共に全員玉砕することを願っていたのに話が違う」複数の手記には、そういった「怒り」が表れていた。兵士が彼女たちから自決用の手榴弾を取り上げた。「若い君たちは死なないで」しかし、少女は、「皇軍兵士としてだらしない。戦うことから逃げている」と醒めていた。正規の軍人以上に天皇に命を捧げる「皇軍兵士」だった。

・・記憶が怪しいので原本をあたって下さい(謝)今で言うJKである。何がそうさせたか。各町村に一人という成績トップの才女たちだった。そういう学校が選ばれた。頭がよく、親や教師から求められるものを全て吸収した。当時の沖縄の人の願いは「日本人になること」だったという。「琉球人」は劣等だと差別されていた。国の体制に従うだけでなく、理想の日本人像に近づくことで「一人前」と認められ家族の誇りとなり、その先に沖縄の発展がある。当時の理想は、天皇のために命を捧げることが最大の名誉で幸せなことだった。