日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

あいちトリエンナーレ

 名駅にバスが着く。歩いてネットカフェ『亜熱帯』に行って仮眠をとる。これでやっと中年が一日動けるようになる。県立美術館に向かい、列に並ぶ。気の早い人が30人ほどいた。今日再開される「表現の不自由展」の抽選方法が発表される。「3時間半後に来てください」と伝えられた。列を作る意味は全くなかった。

 長いので「あいトリ」と略す。あいトリは「まちなか会場」が面白い。初めて参加した第2回あいトリでは「長者町」という問屋街の空きビルが使われた。10代のころ大阪で見かけた問屋街は「素人お断り」の謎めいた「大人の街」だった。店と倉庫と住居が一体となって生活の場でもあるのがビジネス街とちがう。小さな会場は、街に溶けこんで地図を見ても迷った。境目があいまいになって街全部が「作品」のように見えてくる。3回目はボランティアとして。舞台裏が覗けたし、入の悪い演目の席に座れたりと、ささやかな特典もあった。

 6年ぶりのあいトリは変わっていた。ハイコンテキスト、背景や文脈重視というのか。分かってないけど。最初に入った県美術館ではとくにそうだった。解説を読まないと分からない。理解するより感じるのだ、というのが6年前は通用したけど今回は「虚無」だった。新書1冊分の文字は読んだ。映像作品も単調で難解だ。そして長い。一つの展示室では、数十分の作品がセットで合計2時間近かった。虚無で無理だった。

 部屋に入ると巨大な何かが見下ろしていて「おおー」というのがいい。先に考えなくていい。びっくりしてテンションが上って、それで生まれたエネルギーで考えるくらいがいい。今回の騒動で展示ボイコットしていた、難民をテーマにした作品がそれだった。そのフロアはずっとメントス臭がしていた。トイレの芳香剤か誰かの香水なのか。入り口の前で手の甲に数字のスタンプを押される。カーテンをくぐるたびに濃度が上がり、最後の部屋では体調に影響が出るレベルのメントール濃度になる。悲惨な現実が伝わらない → ならば強制的に涙を流させる → その結果として感情が動く。ぼくはドライアイなので潤ってかえってよい。そんな反応も作者の思うつぼかもしれない。

 でも、最近の現代アートはこういう流行だという。アーティストの出自も取り上げる問題もグローバルになって「暗黙の了解」が通用しない。「読み解く」作業に慣れておけば、この先楽しみが増える。また、ハイコンテキストな作品はエコなことが多い。プロジェクターだけ、インクジェットの写真、ほぼゴミを組み合わせたもの。職場で「倉庫管理係」をしていた時期に展示を見に来た。展示室いっぱいの巨大なオブジェを見て「産廃で出すと何十万かかるのか」と悩んでしまった。

表現の自由」について考えた。あいトリが論争なんて似合わない。2005年の愛知万博を継ぐプロジェクトだった。その後の世界の激動も国内の諸問題も、ここには及ばない。リーマンショックを受け流し、災害や陰惨な事件は避けて通る。出生率は、3大都市の中で唯一全国平均を上回っている。富めるものの余裕を示す壮大な「暇つぶし」だったはずだ。外から注目されようとか愛知の人の頭にはないと思う。

 憲法基本的人権が制度化されることで食えているので「原則」にこだわる傾向はある。個人よりも優先すべき組織や利益もない。要は底辺労働者ということ。「子どもには見せたくない」といった守るべき家族やコミュニティもない。書いていて悲しくなってきた。でも「信念」というものは薄くてフラフラした。

揉め事は似合わないと思った。アートと呼ばれるものの大半は権力者が利用してきた。支配階級でも宗教でもいい。美しい絵を並べて「立派な・望ましい」人間を作る。その象徴といえる県美術館に、反体制的な不自由展が収まったら台無しだ。不自由展のパンチが無くなる。タイトルは「反戦・平和」で良かったのではないか。「表現」できなかったものを並べれば面白そうだけど、展示のほとんどは天皇被差別部落・大スポンサーになりそうだ。半分はエロかもしれない。放送禁止用語や流せない歌とか、自主規制したCMとか、年々表現は窮屈になっていると感じる人は多いと思う。僕も見てみたい。ポリコレに反する、と表現を窮屈にした側の人たちと、今回「表現が不自由だ」と訴える人たちが重なっているように見えてしまうのも話がこじれる。それで救われる少数派の人がいるからポリコレはいいんだけど、表現は窮屈になってる。

アラーの風刺画で大規模なテロが起きた「シャルリ・エブド」事件のことなど調べた。原則を重視する人は「宗教も権力だから正当な批判だ。ヘイトではない」と書いていた。権力かもしれないが、信者の生活やコミュニティ存在理由でもあるから、それらを守る権利とぶつかるはず。原則論者が拠り所にする「フランス人権宣言」を読む。「4条:人を傷つけないかぎり制限されないのが自由」、「10条:法律に違反しない限り自由に意見できる」、「11条:自由の濫用に責任を負った上で表現できる」革命の熱狂のなか、好き勝手に理想を描いていた印象だったが、その始まりからしっかり制限をかけている。

フランス革命は情報公開から始まった。会計士が財政状況を明るみにして民衆が不当な立場にあることに気づいた。置かれた状況を正しく認識して、時の権力者からひどい扱いをされないために、意見や表現は制限されてはならない。ならば、一般市民が「分断」されて争うような表現は権力者を喜ばせるだけで、本来の趣旨とちがう気がしてきた。

原則は大事なんだけど、不自由展の出品者が「一部を切り取られた」「通して見れば分かる」と発言するのを聞くと悩む。表現のプロなのに伝え方がダメというか時代に合ってない。「天皇の写真を焼いた」という作品に至っては視点によって意味が逆になる。今年のあいトリでさんざん虚無を味わったから言いたい。丁寧に全部見てくれないよ。そんなに構ってあげられない。短い言葉が瞬時に伝わって、誤解もあるけど、秒単位で数は億単位でチェックや修正、掘り下げまでされる良い時代になった。使い方しだいだけど、その昔民主主義のためのツールを考案していた人たちにとっては夢のような時代だ。

それで中間まとめとしてこうなった。痛めつけられている当事者が表明するのは止めてはいけない。それ以外の人は「伝え方」を工夫してほしい。情報の伝わり方が昔とは違うから。頭良いからできるだろうよ。

youtubeで20年前の「タモリ倶楽部」を見たら、気が変わった。新宿二丁目の「オカマバー」で、ゲイ雑誌の広告を楽しむ回だった。いつもの事ながら「愛」に溢れていたけど「ホモ」と連呼してて「彼らは下品だけど愛嬌がある」というステレオタイプ全開だった。偏見を助長したかもしれない。今は許されないけど、それにしても窮屈だと思う。正しくはないけど深夜放送でちょっと見えてしまうくらいがいいと思った。深夜放送というのも「ゾーニング」だ。子どもに見せなければいい。不自由展だって、安くない入場料を払って、注意書きを読んだ人だけが目にするもの。公園や大使館前に置かれるのとはちがう。やればいい。

「少女像」も慰安婦像なのか平和の像なのか意見が分かれる。だから表現としては好きではない。過去にアメリカとかで政治的なシンボルになっていたんだからプロパガンダと言われても仕方ない。正直その経緯にはうんざりした。けどアートのすこいところは、うんざりしつつ少女像には惹きつけられる。目に入ると、じっと見てしまう。同意しなくてもそこにあって何か感じることは止めることではないなと思う。

30人の枠に700人以上が抽選に参加し当然落ちた。東京から夜行バスで1日だけ見に来たぼくは落ちて、当日誘った徒歩20分の友人が当たった。