日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(41) 沖縄日記(5)

『団結道場』は、伊江島の反基地運動の拠点で、運動のシンボルとして維持されている。最近改修がされた。「米軍に告ぐ」から始まる抗議文も、リフォーム工事のときにはプロジェクターで映し出して正確に元の文体を再現した。

友人と訪ねた時、地元の議員さんが視察に来た。友人が対応するあいだ、時間を持て余してうろうろする。コンクリの塀がはがれて断面が見える。卓球の玉くらいの錆びた鉄球がいくつも埋まっていた。

「鉄筋でもないし米軍の何かでしょうか」聞いてみた。それは「バラスト=重り」だった。米軍が投下した「模擬核弾頭」に詰められていた。畑などから回収したものを砕石と混ぜたんだろうと。NHKスペシャル『沖縄と核』に伊江島も出ていた。

番組では、冷戦中に沖縄が、世界最大規模の核の基地だったことを明らかにしている。弾道ミサイルが完成するまでは、広島長崎のように空から爆弾を落としていた。レーダーや対空兵器の進歩で上空を飛べなくなった。低空飛行で侵入し急上昇するときに「放り投げる」ことにした。

「銃剣とブルドーザー」による土地収用といった強権的なやり方は、占領が始まって十年近く過ぎてから。沖縄戦が終わると、米軍の物資が入ってきたり、本土に先立って女性の参政権が認められた。生活のためには、米統治下の方がまだ良いと感じる人も多かったという。

東西対立が激化すると、朝鮮戦争の補給基地から始まって核戦争の一大拠点になった。「放り投げ」式では狙いが定まらない。訓練には大きな「的」が要る。1955年に伊江島で住宅と農地が焼き払われたのは、それを作るためだった。実際、ダーツの的のような半径数キロもある「的」の航空写真が残っている。

安全保障のためには、沖縄の犠牲も「仕方ない」とする人たちがいる。きっと多くの通信読者とは分かりあえない。ぼくは実家に帰れば会える近さに1人いるので、少し「仲介」してみようと思う。

彼らにも学ぶことはある。辺境地域に、より手厚い支援をすべきだとか。とくに離島となると産業が成り立たなくなっている。東京への集中以上に「辺境から地方都市」への移動が深刻だ。人が住まなければ国土は保てない。一次産業を補助したり、島へ渡る船や飛行機の旅費を下げて交流を促す。それには賛成する。

その一方で「中国の脅威」をあおり、沖縄の基地は必要で、それを阻む活動はすべて「工作活動」だとして議論を受けつけない。そんな人たちが何を考えてるのか、知りたい時に「仲村覚」さんのブログを見にいく。内容には同意しない。反対の立場の人に向けてなんとか伝えようとする熱意を感じる。

「読むに耐えない」文章が多い中で「読める」ことは貴重だ。仲村さんは「左翼の工作員」に対して、劣勢になりつつあると危惧している。とくに国連の「琉球民族先住民族勧告」や、琉球処分は「侵略だ」とする評価に対して必死の反論をする。それは、中国が侵略を始める下準備というわけだ。

僕には、反基地運動の方が劣勢で、圧倒的な権力に対して、残り少ないカードを切っているように見えていた。歴史的にも「本土復帰運動」を取り上げて、心情的にも、「沖縄が日本であること」を文字数と熱量で説得する。仲村さんが熱くなるほどに、かえって冷静になる。

沖縄と日本本土をつなぐものは実は多くない。日本語を話し、民主主義を掲げていること。いっしょでいるためには、実績を積んで育てていかなければならないと思う。沖縄の自己決定というけど、近い文化や価値観を持つ仲間がいてほしいと思う。できれば独立とか考えないでほしい。でも同じ時間を共有していないと、そうは言えない。長く同じ時代を過ごすほど結びつきは強まる。これまでそうしてこなかった。

琉球藩終戦までの期間は、同じ日本だとは思えない。占領下でやっと同じ目線に立ったのかもしれない。朝鮮戦争のあたりから正反対に進み始める。本土は「逆コース」によって賠償額は減り、産業は復興した。当初は懲罰的な経済制裁と設備の破壊もあったものが、冷戦の「追い風」にのって奇跡の復活だった。

同じ時期、沖縄では軍用地の強制収用が始まり、住民の自由は急速に奪われていった。再び道が離れつつある今こそ、同胞として同じ苦労を分かち、同じ民主主義の手続きを踏むことこそ持続的な安全保障になるのじゃないかと思う。この話続けます。