日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(40)沖縄日記(4)

従軍慰安婦の方たちは気の毒だと思う。日本人に利用され痛めつけられ、今度は「子や孫たちの世代に」利用されている。と、言ったら彼女たちはどんな顔をするだろうか。

ニュースを見ながら、理解が追いつかなくなると、こんなことを考えて、突き放してしまう。幼稚だと思う。人権のために取り組んできた、たこの木周辺の人たちに吊るし上げられそうだ。

『主戦場』は、従軍慰安婦論争を扱った映画だ。人道問題を小さく見積もる「歴史修正主義」に対して「国として性奴隷を使った」とする学者や市民団体が反論する。すごい人気で一度は満席で入れなかった。

ひとつは歴史を理解するため。ニュースに上がってくるのは、時には「過激」とも見える主張が多い。対立する、どちらの主張もトゲのきついのが目立つ。自分はリテラシーが弱いので、疲れて冒頭のような弱音を吐く。長尺の映画なら、刺激に頼らない落ち着いた議論が見られると思った。実際、修正主義に反論する人たちの中には抑制のきいた冷静な評価をする人がいた。

被害者数や強制性の有無については、書類が意図的に破棄されたために分からない部分が多い。早稲田にあるという「女たちの戦争と平和資料館」の代表の方は、そのことを認めて、過剰な表現に対して批判していた。多すぎる数字や、「幼児も慰安婦にされた」という主張に対して。そして、女性たちの中には、逃れる自由はなくともお金を貯めたり余暇が与えられていたことも否定しなかった。「それを言ったら相手につ け込まれるんじゃないか」と思う。映画に対して「問題を矮小化している」と批判も出ているようだ。印象では、資料館の人は、スキを与えないためにあえてそうしたように見えた。

「性奴隷」。もっと他の言葉はないだろうかって思う。現代の「奴隷的労働」の定義では、辞められず身体を壊して働くブラック企業社員も「奴隷」だし、タイに送られて詐欺の「架け子」をさせられる債務者もそうだ。慰安婦の実態はその通りだけど、「ドレイ」にしみ付いたイメージが強すぎる。ユーゴ紛争で広告代理店が広めた「民族浄化」という言葉を思い出す。感情をあおって争いを拡大させるための宣伝文句に見える。

もうひとつは、沖縄を考えるヒントが得られると期待した。国家間のことになると「道理が引っ込む」ことがある。沖縄にはそういう「無理」が多い。ずっと軍事占領されていたのも実はずっと国連憲章違反状態だったし、本土復帰しても「占領」は続く。選挙で勝っても工事は進む。安全保障に関わると、無理も通るし偏りが出ることも、ある程度しかたないか、と弱気になることもある。それにしてもひどい、と思う。

慰安婦問題でも「国益」に関わると、人権が尊重され、情報を論理的に理解するといった、少なくとも自分たちの社会の「道理」が引っ込む、土台が崩れる感じがする。映画の中で「修正主義」論陣は、見る見る劣勢になり、漫才のボケ役の扱いになって笑いを誘い、勇ましい口調には哀愁が漂う。

でも、そこじゃないんだ。彼らは、1つの事実に対して百の「事実に即さない希望や要求」を言い続ける。そうすれば、同調する人が集まって「史実」は変わらなくても「歴史認識」は変わると信じている。コメディアンに見えても(監督の演出とはうらはらに)着実に成果を出している戦略家たちなんだ。

認識が変われば評価が変わり、行動(政策)に影響する。沖縄も、無理を通していれば一定の支持を得て「仕方ない」と思うようになる。そんな、表向きは民主主義の、「裏」の論理がある。権力者や利用する人からすれば、事実を見ずに評価を変える「裏のマニュアル」になる。

4年前に図書館で本を手に取った。タイトルを見て胸がザワついた。『知られざる戦争犯罪〜日本軍はオーストラリア人に何をしたか』。自分と同じ日本人が「そこまではしないだろう」という信頼が打ち砕かれた。最近また取り上げられている看護師への暴行と虐殺、そして、補給不足の中での「食人」。

熱帯では死体は腐敗するので、捕虜を「生きたまま」少しづつ解体したという(生きていれば腐敗しない)。当時の反日感情は強く、戦後処理についてもオーストラリアは天皇の処刑を求め強硬だった。現在は友好国でお互いに好感を持っている。本を読んだ後では、暗い水の底を覗くような、ぞっとする静けさを感じる。慰安婦問題とは逆に、まったく光が届かない。同じく歴史の残酷さを感じる。