日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(37) 沖縄日記(1)

とっさに、うまいこと言えない。大阪にいたころ「そこ、ツッコんでよ」と言われ続けた。文化の違いだと思っていたけど、関西を離れてもアドリブがきかない。うまいこと言えた(自己採点)のは数年に一度くらいのことなのでよく覚えている。

事故した時に母に電話した。安心させつつ危機的な状況も知らせたい。「オレオレ詐欺みたいだけど違うよ。アゴの骨折れてるみたいでこんな声だし、息子が事故ったというのもいかにもだけど。でも今後のためにも電話切ったあと番号を確かめた方がいいよ」。

3年前に沖縄本島を一周した。北部「やんばる」と、点在する基地を見たかった。辺野古の海沿いで反対派のテントを見つけた。人はいない。ビラを読んでいると、おじさんが2人来て防波堤に座った。日暮れの海を見に来たようだ。あいさつする。騒ぎをよく思わない人も多いと聞いていた。1人は、ちらっとこちらを見たあと無言で立ち去った。

沈黙の後、やっと思いついた。テントと基地以外の話題を。来る途中に「サバニ」を見た。昔の漁船で今はレース用のボートだ。もう数人しかいないサバニの船大工さんの工房を訪ねたことがある。

「こんな曲線がきれいな船は他にないです」。そんな誰かの受け売りの言葉を、おじさんは喜んでくれた。「糸満のサバニレースを見に行きたい」と話すと、いやいや、と手を振ってウチナーグチ(沖縄弁)だけど、要は「あんなのはダメだ。ここのは来週やるからぜひ来なさい。ずっと良いから」と誘う。気になるが来週はさすがに。ムリとは言えず、言葉を濁してしまった。

詳しいことは知らなかったけど、ここの暮らしを知らないで、周りに騒がれることのもどかしさを感じた。つい最近「抗議船」に乗せてもらった。毎日のように工事を監視している。数少ない「持ちネタ」なので、この話は先延ばしさせて頂く。実は誰でも乗れる。身元も名前すら聞かれなかった。「過激派」的に思い描いていた人は、この点で裏切られるのでは。

東京に戻って寄付しようと思った。「ヘリポート建設阻止協議会」という変わった振込先だった。1955年に米民政府から山林使用の打診があって渋っていたら「反対するなら村ごと強制退去の上で補償はしない」と脅された。遠くない伊江島で、米軍が家に火を放ち住民を追い出した噂は聞いていただろう。「条件闘争」に切り替え、基地と共存して今日まで生活を守ってきた。96年に普天間の代替基地の候補に上がった時に、区民によって例の「振込先」が作られた。遅れて基地容認派も組織を作る。地区全体としては反対だった。

それから20年、何をどうしても「粛々と」建設が進む。賛成でも反対でもなく「容認」 では言葉が足りない。「平穏な暮らしを早く」がより近い気がする。数年前に、東京の大学生に沖縄の基地のことを説明したことがあった。「負担が偏っているのが問題で、差別的だ」と言うだけのことが難しかった。東京にも横田基地がある。でも沖縄と違って国の土地だったから反対する人は少ない。六本木にもあって、米軍は入国検査もなく自由に出入りする。国会や霞が関という国の中枢まで2キロしかない。でも、軍人の数は数千人と少ない。沖縄には2万人以上いる。東京の基地では訓練は少なく、生活への影響は少ない。

ついでに「横田空域」というのが静岡から新潟まであって米軍が管理している。朝鮮戦争当時に日本海側へ自由に出ようとした名残り。自国の首都の上空を自由に飛べない。それで沖縄が差別されてきた歴史とかに触れた。でも、東京もたいがい「差別的」な状況だ。なぜ平穏無事に暮らしているのか分からない。

福祉の仕事をして税金で食っている以上、反差別で人権擁護なのはポジショントークでもある。抗議船の4日後に靖国神社遊就館を見学し、右寄りの主張をネットで大いに学んでいる。通信読者の多くは近寄らない世界だと思うのでウケるのではないかな。次回をお楽しみに。