日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(33) 兄の呪い 前編(1/3)

溺れて死ぬ。あれほど苦しい死に方はない。そう思っていた。

10年ほど前に沖縄の海で死にかけた。砂浜だけど急に深くなる。そして波が高かった。遠くの海を台風が通過していた。マヒのあるSさんを介助しながら遊んでいて、波で深みに運ばれた。手を離すと沈むしかないSさんを支えつつ立ち泳ぎをする。自分の頭は水面に出ない。Sさんを水面へ、足は砂に届け、と垂直方向へ片手の平泳ぎ。

洗面器に顔をつけて息を止める。ペットボトル1本の液体で生命を脅かされる。内臓は荒れ狂ってるのに体は動けない。その恐怖感は「なかった」。海では、1本分の空気で生きられる。両手足を振りまわしてもがく。恐怖する余裕がない。

頭の中は「またやってしまった」という自己嫌悪と、Sさんが溺死した時の責任問題がぐるぐる回っていた。良くも悪くも平常心。津波の犠牲者が民家の階段にもたれて目を閉じている。難民の子どもが浜辺に横たわる。海外メディアの生々 しい写真。苦しかったろうけど、ニュースが作る印象とは違うかもしれない。生きるのに必死だったけど「絶望」はしてなかったかもしれない。

死、そして老いや病、障害について語るのは難しい。不謹慎だとか言われる。だけど、自分や身内の「死」を足かりに少し踏み込むことはできる。25歳の時に5歳上の兄が亡くなった。脳腫瘍で、最後の方は身体障害者のようになり、軽い認知症っぽくもなった。人間の多彩な側面を見せていた。

兄の死に対しては不気味なほど淡白に受け止めていて、どんどん忘れていく。感受性がバカなんだろう。僕以外の家族や兄の知人のおかげで、看取りが「充実」した結果、それで良くなったのかもしれない。

秋から冬に、実際の季節と進みを同じくして枯れるようになだらかな下降線を描いた。こういうのは生前の徳に対応するものらしい。兄は、そうは思えないから神様の特例なんだろうか。兄のことを思い出すこともなく、誕生日も命日も過ぎてから家族から言われて気がついた。

さらに、不義理で世間知らずの弟の「社会参加」に貢献させられていた。卒業しても就職してなかった。コンビニバイトでは親に顔向けできない。福祉なら世のため人のためで文句ないだろう。自転車で面接に向かいながら「悪いけどネタに使わせてもらうよ」と謝ったのを覚えている。兄の話をすると、子どもを若くして亡くしていた女性施設長が涙ぐんでいた。身近な人を亡くした方と、兄を間に挟んで、話すこともできた。それ以前ならとてもできないことだ。弟の僕に対しては、「変なやつだ」とバカにしながらも一目置いてくれる関係だった。

バカにしてた分は取り戻そうと、必要なときに「活用」させてもらう権利はあると思った。履歴書の使える「職務経歴」欄のように扱っていたけど、実際には反対だったのかなと思い始めてる。その時々の選択も、仕事の捉え方も、兄との関係で作られた「枠」から出られない。意外にも存在は大きかった。命日のある1月を挟んで3回シリーズで書いてみる。