日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(30) 多摩スケッチ「日野」

トイレで移乗をしてドアの前で待っている。試したいことがある。

床に座り両腕をついて腹筋で体を持ち上げる。数セット合わせて約1分。腹筋や体幹に効いてる。合図があれば、すぐに立ち上がれる。また一つ待機中の「内職」科目を身につけた。

スクワットや腕立て伏せをしたこともあった。静かな住宅では音が問題だ。衣擦れも響くしね。筋肉が動く音も床板を通して意外とうるさい。寝転んだ状態からバタバタと起き上がるのはよくない。すぐに介助に入れる「見守り」の態勢は維持したい。

「見守り介助」は奥が深い。「待機はどう過ごせばいいんですか?」ヘルパー登録のときに質問した。施設職員の時も「見守り」はしていた。その場には居るけど他のことをしていて、何かあれば動く。某法人Sさんの回答はちょっと書けない。「何かしないと」と先回りして余計なお世話をするより◯◯してた方がマシということだった。意図を最大限「忖度」すれば、だけど。

「内職」に凝りだしたのは、ヘルパー始めて1年目くらい。慣れたのと「待ち続ける」といったストレス場面を乗り切るため。それで、いつも平常心なら利用者も嬉しいはず。「感情労働の技術」だと言いすぎかな。有能な内職「片足つま先立ち」は万能で、どこにでも使える。だんだん「見守り」範囲を超えて「このままヒゲも剃れるのでは」「耳掃除できるのでは」と危ういことをしていた。

その頃は、月に300時間は入っていて疲れていた。「通勤ラン」もその一つ。これは迷惑かけたと思って今はやってない。毎週、府中から日野まで約8キロを走った。内職じゃないけど、今度は「仕事全体」を乗り切ろうとしていたかもしれない。冬はバッグにパンパンに着替えを詰め込み、猛暑の夏も汗だくで走った。利用者宅の手前の公園で頭から水をかぶって着替え、コンビニでアイスを食べて「出勤」していた。地域でのヘルパーの社会的地位を下げていたと思う。

甲州街道を日野に向かって国立インターの手前で道が折れる。東京に来て初めて富士山を見た。坂を下ると隠れ、石田大橋の上で再び正面に現れる。テンション上がる。どこでも見れるわけではない。むしろ富士山は意外と見えない。近くを走る東名高速や新幹線からは短い区間だけ。「富嶽三十六景」には都内の場所が多い。今でも「富士山展望テラス」や見えるという由緒の「富士見通り」に出会う。でも見えたことがない。

なぜ富士山を自分の庭のように扱うのか。東京の人は、何でも手に入れすぎじゃないか。日野では毎週のように見ている。今は多摩川支流の「ふれあい橋」から見える。マップを開くと、大きな道や川という「直線の大空間」が南西に開いていたら見える。それぞれは数百メートルと短いけど条件さえ合えば今でも都内から見える。なら仕方ない。

天候によって見えたり見えなかったり、いつも存在を感じて暮らしていたら、有り難いし行ってみたくなる。「富士講」も似た動機だっただろう。通勤ランで1年間眺めたあと富士登山をした。前回は五合目から弾丸登山だった。今回は、富士講の歴史にあやかって吉田口の一合目から。