日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(30) 多摩スケッチ番外編・河内スケッチ「八尾」

この辺りのことは触れづらい。十代のときに四国から大阪に出てきた。初めての都会だった。

地元では、山と海、平地は田んぼとビニールハウス。そのスキマに街があった。都会ではスキマに緑が残り川が流れる。突然現れた広大な街を仕分ける。よく使う阪急沿線、淀川の北側は好ましい。京都・三宮には行ける。川を南へ渡るのはスリルがある難波が限界。その先の河内と呼ばれる地域は遠かった。

トークライブ「住んではいけない土地」at 新宿ロフトプラスワン。土地の因縁をネタに盛り上がる。関東編を一度聞いた。八尾訪問から戻ってみると何か軽い。処刑場の跡だとか江戸の大火とか。根っこは深くない「成功者が住むと運気が上がる」らしい。なら、人が集まり土地が高騰する東京は怨念が薄い。タブーも少ないと思う。この辺り、つまり京都・奈良・大阪が隣接するところ。千年も日本の中心で、その歴史を動かしてきた。「東京遷都」までならもっと長い。世界の中でも、長く一国の中心であり続けた土地は珍しいと思った。因縁も怨念も深いだろう。

「フィットする支援をめざす会」のメンバーと八尾を訪ねた。フィットする支援をめざす会」のメンバーと八尾を訪ねた。でも、街を見てない。着いてすぐに串カツ屋へ。一本食べ終えるのを見て次の揚げたてが出てくる。それで千円しないランチだ書けるのはこれだけ。駅前の「串のアイワ」は最高でした。

「八尾の蚊はでかいで」やしきたかじんが言っていた。八尾のことはなぜか知っていた。それも、何となくこわい。何となく悪い。TVや雑誌で目に入ってくる負のキーワードと結びつく。その意識のまま検索ワードを入れていくと出てくるのも負の情報が多い。労働組合や人権運動の盛んな地域だ。「同和利権」の事件もあって、やはり少し近寄りがたい。

初日は見れなかったので、翌朝に早起きして街を歩こうと思った。宿泊場所に着いて「明日もあるし早く休みましょうか」と年配のメンバーを気遣ったつもりだった。でも、多摩の大先輩たちは元気だった。最年長Sさんは、下調べして、早く着いて既に関心のある場所を訪ねていた。それから長丁場の研修会に出て、交流会で飲んで宿泊場所へ。冷蔵庫から最初にビール出したのもSさんだった。遅くまで話しこんで朝は起きれなかった。

視点が変われば見えるものも変わる。Sさんにとっては八尾は歴史ある運動の拠点であり、今も活発に活動する最前線だった。同和問題も、その土地の歴史と人の営みの深さを物語る。淀川の先に、かすんで見えなかった梅田の高層ビルの向こう側に陽が差しはじめる。

ほとんどは自分の中の問題だ。視野の狭さとステレオタイプの理解、つまり偏見。現在から見える範囲という「時間」の壁や見通せない濃霧や暗闇もある。世代や時代という時間とともに見えにくくなるものにも光が差した。

被差別部落天皇制についてのKさんの話。「天皇制システム」には身分差別が組み込まれている。アジア・日本の「賤民」の歴史の本を貸してくれた。「万世一系」の高貴な血筋、という「神話」のためには「ケガレた血」が、永遠に受け継がれるフィクションを必要とした。

または数冊の本をかじった自分の理解もある。天皇制というのは、混沌とした世界を生き抜くために設計されたAIか生き物に見える。柔軟に外から取り込み、自分を作り変え、ある時は岩陰にかくれ、または寄生し共生もする。差別は、自分を守り、自己を維持する「免疫」のように自然に備わっていると感じた。人が人を支配する数千年の歴史で身について容易に離れない。「ケガレ」と「いやしい身分」そして「神」の血筋。

以下、「読書メモ」ですらない自分勝手理解なので、興味ある方は私かKさんに出典を聞いてください。ケガレの意識はインドから。先住民を支配するための階層制度を宗教が裏付けた。「貴賎」の細かい体系は中国から。荀子はざっくり言えば「差別がないと、人は自分が何をすべきか分からない」ので、社会の安定のために必要だとした。韓非子は、生産し税を納める者を優遇し、財政に寄与しない者を減らすために使った福祉業界でいえば「単価で誘導する」ようなこと。それを紀元前から考えてる中国人にちょっと感動した。我が国独特に見える「神格化」は、大陸の北方民族の思想を取り入れたといわれる。古墳時代のある時期に遊牧民族の文化が一斉に入っていて、古来の日本は征服されたという説がある。歴史は書き換えられていた。

多くの「歴史」も同じなんだろうけど。雑な理解にせよ、八尾の旅を経て、日本人の最大のタブーである天皇制を自分の中で解体できつつある。歴史が面白くなっている。歴史の授業も、小説もドラマもゲームも好きではなかった。「民俗学」っぽいものをかじって流行りに乗った気にはなっていた。それらを隔てるものがなくなって楽しめるようになった。暇があればスマホウィキペディアのキーワードをたどっている。今のところウィキペディアどまりではある。

今でも構造は変わらないと思った。日本の文献での最初の「賤民」は「河原者」や「濫僧(ろうそう)」という。貧困に陥り、土地を離れて、農業のできない、つまり税金のかからない「河原」に住んだ。または免税特権のある僧侶の姿になって放浪した。それを当時の権力者がバッシングして「よい市民、よい納税者」であることを要求する。明治になって「賤民解放令」が出て制度上は平等となる。それも平等に税金をとるためだった。税金で始まって、税金で形式的には一旦終わる。平成の時代は、税金の問題で生活保護受給者や福祉サービス受給者が差別と偏見を受けることになる。これは権力が主導してるわけではないけど、人と税金と差別は分かちがたいものなのだな。

人が群れて社会を作ると、維持するために差別が生まれやすい。仕方ないということではなく、こうやって解きほぐすことはできる。

ここ数年、たこの木などで刑事施設の問題、野宿者問題に首をつっこんでいる。これも現代の「化外・人外の者」として社会の外に出されている。タブーでもあるけど、近づくことも関わることもできる。福祉の仕事していても、「当事者」には一向になれない。ここも外からはタブーの世界かもしれない。でもそこで働き、深く関わることができる。

被差別部落天皇制という2大タブーではあるけど、近くに行って関わって、考える、ということはできる。ちなみに私の父は肥後の事大主義、天皇陛下に足を向けられない。三重に縁があって、伊勢神宮の素焼きの「鈴」は、家族が持ち回りで初詣に通って(その時期しか手に入らない)干支をコンプリートした。でも、親しみをもつことも批判することも、一人の中に共存できる。多摩の先輩たちに教わったこと。