日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(26) 多摩スケッチ「大泉氷川神社」

まずブレーカーを探す。上を向いて半開きの口のまま、天井近くの壁を見てまわる。引っ越して最初にしたこと。

初めての1人暮らしが不安だ、という人と話した。食事の準備・洗濯・掃除を1人でやらなくちゃ。やってみると逆の結果になることが多い。1人暮らしの良さって、そういうのやらなくても何とかなること。食事は1日1食でいいし、洗濯は週に1度だし、掃除は月に・・自分がそうってことじゃないけど、それでぎりぎり健全な社会生活は送ることができる。後は、自分が健康でありたいか、人からどう見られたいかで選べばいい。

自由で自己責任。いろいろ無くてもいいんじゃないかと思って、トイレ風呂共同の部屋に住んで、次にトイレと流しは部屋に付くとこに住んで、今は全部付いてるけど冬は寒い。その経験を踏まえて、部屋が寒いのが1番つらいと分かった。わりの目は気にせず、必要なものを選んで「無駄」なものは削っていけば、何か良いものが残って身軽にもなれると思う。

ヘルパーを始めた。移動中に買い食いしてるうちに腹が満たされる。人によっては風呂を使わせてくれる。洗濯もついでに。・・いや公私混同がすぎるのでこれくらいにしよう。

「時給」の発想で働くとずいぶんケチな性格になった。何かの目的のために倹約したり無駄を見つけるのは良い。それがなければただのケチという。古今東西の嫌われもの。今それだな、 と気づいた頃には、冷蔵庫のコンセントを抜いていて、出かける時は玄関のブレーカーを落とすようになっていた。

外環道・大泉インターの近くに住んでいる。インターにつながる大通りにチェーンの量販店が並んでいる。ホームセンターと食品スーパーがくっついた「スーパーバリュー」は、自転車置き場を抜けて店内に入る。いつ行っても、その駐輪場は広大で満車で通路も人が行き交う。駅前の駐輪場の規模で出入りはもっと激しい。ぼくの行く時間はお年寄りが多い。一人ひとりは歩みも動作もゆっくりだけど、大勢群れとなって買い物すると何か迫力が出てくる。

その数軒となりに神社がある。毎日のように使っているコンビニから袋を下げて出てくると、その氷川神社の参道が見える。「旗竿地」になっていて大通りの入り口は狭い。ぼーっと暮らしていると気づかない。コンビニを出て、たまたま目線を上げた時に初めて出会う。細い参道は新しい。通路と灯籠の石の色が新しい。ぐっと坂を上って、その先に社殿らしき建物が少し見える。

スマホをいじっていて、ゴミ箱を掃除して戻る店員とぶつかりそうになって顔を上げた。または、駐車する車が入ってきて、直前で気付いて目線を上げた時に目に入る。

大通りを挟んで氷川神社。交通量が多く、横断歩道の信号が10秒で点滅を始める。実際数えてみた。歩行者には冷たい。その時は、もっと長く、果てしなく遠く感じた。石灯籠が白くて新しいだけじゃなくて、大きいし数も多い。狭い参道なのに多すぎるんじゃないか。わずかに見える社殿も立派そうだ。言いたいことは、金かかってるだろう。

目立たなくて、そんなに広くないということは地元の有志が費用を出したんだろう。立派すぎると思った石灯籠は、その有志たちの熱量と、かかった金額を表す。新しいということは、現在近所で暮らしている誰かが出している。スーパーバリューのお客さんかもしれない。農業が産業の中心で、季節の行事が大切で、神社やお寺が、みなの拠り所になっていた時代は、いろいろ違うと思う。でも今、それをできることが想像できない。

その究極の「無駄」ができることが理解できない。昔はできた。三重に縁があって毎年のように伊勢神宮にお参りしてたとか、ありがたさは分かる。その昔は友達とオリジナル神様を創造して祭壇にお供えしてた「小二病」の時代もあった。

その時は、夜勤明けで太陽まぶしいなと思いながらコンビニから出てきた。アルコールとタンパク質を摂取するための何かを買って、野菜ジュースを加えることで栄養的にちゃんとしてると言い聞かせる。家に着いたら少し家のことをして、アマゾンプライムを観て、また仕事に出る。生きるために生きるのみ。虫のように。

無駄に見えて大切なもの。外国の話を聞くようだ。「五体投地」でチベットカイラス山を巡礼する人たちのような。 共同体を失い孤立する現代の病、という話ではなくて、ヘルパー職の「トリップ癖」のことかも知れない。

コンビニで感慨に浸った数週後に熊本へ行った。山間の小さな集落で「先祖祭り」に参加する。先祖がそこの出身の可能性がある(ここ強調)ことを父親が調べて、毎年行くことになっている。押し掛けている、が正しい。今年は父親の代わりに1人で行った。形式的には、ご先祖が名乗っていたという別の苗字の人として。それを家族のように歓迎してくれる。父と一族の想像力で事が動いている。

ほどほどに自分を消しつつ誰かの生活に入り込むことを続けていると、ごっそり周りが入れ替わることに慣れるのかもしれない。能力ではなくてクセとかサガというもので。「寄り添う」「受け入れる」。

ちょっと悩む。受け身で自分の一部をゆだねる「諦め」と「奴隷根性」じゃないのか。由緒を知りたくて神社に寄った。石碑によれば4億円かかっている。何十人の共有だった広い境内が高速道計画により買い上げられ、そのお金で建て替えた。

莫大な資産を寄進している。けど、それは想像力の範囲に少しは重なっていて安心した。不謹慎だけど。マンションの建て替えや区画整理と近い。こつこつと毎月の収入の一部を、身銭を切って納めたお金とは少し違う気がする。自分のいる世界と接点があるかないか、という違いだけかもしれない。