日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(19)無謀にも「人権」を考える(9) もう1枚の「日の丸」

もう1枚の「日の丸」4月に知花さんの講演を聴きに行った。10年前に沖縄で会ってから、ちょっとした「追っかけ」になった。魅力的な人だ。経営する民宿で三線を弾くのを聴いて、帰ってすぐに三線教室を探した。

好きだったけど予定が合わないのと飽きっぽいので、三線はもう長いこと押し入れに眠っている。メル○リに出品しようとして、少し分解して材質とか調べるうちにだんだん愛着が湧いてきて迷っている。先生すみません。

千駄ヶ谷の駅を出ると騒然としていた。右翼っぽい人たちがデモをしている。「まさか相手は知花さん?」と心配になったけど違った。でも十分に「資格」はある。講演のテーマは「天皇制と安保」で、案内文によれば

『今年の講師は知花昌一さん。1987年の沖縄国体で掲げられた「日の丸」を引きずり降ろし、1996/4/1には不法収用状態となった米軍基地(「象のオリ」)で「もあしび」(宴会)を行った』

反戦運動の英雄であり反基地運動の象徴である。聴衆もそんな勇ましい話を期待していたように見えた。「・・やってるな。デモやってる彼ら。正義を振りかざすと、まわりは全部「不正義」になる。私たちが決められるような正義はない。仏教を学ぶと分かるんだけど、それぞれの生き方があるし、相手を尊重して、もっと緩やかな運動を」仏教??

安倍さんをどうこき下ろしてくれるか、期待していた客は拍子抜けしていた(ように見えた)。最近本職の住職になった。終戦の日に「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」に行った。せっかく東京に出てきたので見れるものは見ようと思う。一昨年は隣の靖国神社へ。揉めていた時期で過去最大の参拝者だったという。炎天下の下で2時間近く並んで参拝した。千鳥ヶ淵なら静かにお参りできるかと思ったら、福島みずほさんが演説を始める左巻きな会だった。「アベ暴走政治をなんとか」とやってる。

もう一つ、位置的に三角形の一角の武道館にその安倍さんがいて遺族らと式典をしているけどそこは入れない。それぞれ歩いて行ける距離にあって、かつ波風立たない程度に棲み分けができている。良くも悪くも日本らしいと思った。

「日の丸」を焼くという過激な表現によって、英雄視されたり、逆に激しい反発も受けた。「再び掲揚されないように」燃やしたんだという(すぐに予備の旗が掲げられた)。内地(日本本土)から右翼がやってきて経営する商店の営業を妨害した。何ヶ月も続いたけど地元の客がそれをかいくぐって利用したり、遠方からもわざわざ買い物に来たりして守りぬいた。ぼくはこのエピソードが好きだ。

思想に入れ込んで過激化した「活動家」ではなくて、もっと素朴に、その土地に根ざして「そこで生きるための」止むにやまれない行動。娘の未来世さんには知的障がいがあって福祉の運動にも関わる。未来世さんは見事というくらい地元になじんでのびのび生活してる。そんなこともあって、「地に足のついた」活動というだけではなく、人間の深いところに根を張っていて、表に見えるのはささやかな実や花だけ。沖縄や基地という枠では捉えられない。

だから、日の丸のこととか枝葉のようで聞けないし、ご本人も「もうたくさんだ」という風に見える。知花さんの民宿で一人が質問する。「沖縄独立と言い出す人もいる中で、知花さんは自分が何人だと思いますか」それに「日本人というより『沖縄人』という気持ちが強いな」と答える。ぼくは地元に根ざした生き方の延長でそう言っていると感じるけど、聞く人によって反応は違うだろう。独立の話について知花さんは「居酒屋独立論(=非現実的)」と言っている。

少し「愛国」的な知人を連れて行ったときに「いい方だけど、あの人はアンチだろう」と後で言っていた。アンチとは業界では「反日」という意味らしい。日の丸を焼いて日米同盟を妨害し、きっと中国とも通じて我が国を陥れようとしている、警戒せよ。

別の集まりでこんな話を聞いた。「燃やした日の丸とは別に、自分用の日の丸を机に入れて大事にしている。単純に反日左翼という人じゃないんだ」事実であれば、この複雑さは魅力的でもあるけど謎めいてる。いったいどういう人なんだ。その「もう一枚の日の丸」は右翼の言論人という鈴木邦男さんが紹介していた。東京の聴衆は「不思議な人がいる。沖縄は謎めいてる」と珍しいものを見る反応だったと思う。

数年前上京したぼくには東京の方が謎めいてる。東京の学生に米軍基地のことを話す機会があった。「いかに沖縄に負担を押し付けているか」とお決まりの流れを自分の話下手で誤解させないか心配した。いや伝わらないのは話ベタだけではない。住んでいた青梅市のはしっこに横田基地がある。5自治体にまたがる巨大基地だ。東京ではないけど横須賀も巨大だ。どちらも日本の中枢から1時間の距離にある。超法規的な運用をうわさされる赤坂のヘリポートは官邸や国会から歩いて行ける。よくこれで平気だなと。

地上戦の沖縄戦は悲惨だった。でも東京大空襲は一夜で10万人が殺された。内地に広げれば空襲は今でも被害がはっきりしないほどの規模だったし、北方領土でも地上戦があり帰ることもできない。とりあえず、国有地の横田基地に対し奪われた土地ということ、薩摩支配から始まる差別の歴史にふれてごまかした。沖縄は何が東京と違うのか。

大した意見でもないけど、大国(や中央政府)の思惑に翻弄され続ける沖縄のような地域が世界の大半なんだと感じる。主権の侵害を恐れなくていい一部の大国のさらに一部の中央寄りの地域だけが「平和」を謳歌している。東京や内地日本はその特権がある。そのユートピアから見れば沖縄(朝鮮半島も?)は複雑で理解に苦しむ。知花さんの「もう一枚の日の丸」はそれを象徴するものだと思う。

知花さんは米統治下の1948年生まれ。幼い知花さんにはアメリカ人に対し良い印象しかなかったという。米統治下では終戦直後の内地より豊かな生活もあった。1952年に「沖縄占領継続と引き換えに」内地は主権を回復した。軍政府の締め付けや人権無視はひどくなり本土復帰運動が盛んになる。知花さんは「沖縄には適用されない平和憲法に一目惚れだった」と言う。そんな中1960年代には「教職員組合が『日の丸購入運動』を推進し、日本人としての誇りをもたせようと学校で生徒に売っていた」(写真集『日の丸を視る目』)。その時手に入れたものが偶然出てきた。「この旗は米軍独裁から逃れるための旗だった。焼こうとは思わない」

(同)1970年コザ暴動が起きる。多くは喝采を送ったが「自粛で米軍の客が減る」と飲食業者は複雑な立場だった。1972年に沖縄本土復帰。「基地も本土並みに」との願いもむなしく基地は存続し、逆に内地の基地は縮小が進む。1983年に地元読谷村チビチリガマの集団自決の調査に協力し、当時の「日の丸」のもとに行われた「教育(皇民化教育)」への怒りを抱く。日の丸掲揚が国体会場誘致の交換条件となり地元でも意見は割れたが譲れなかった。1987年10月の開会式で事件は起こる。