日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(12) 無謀にも「人権」を考える(2)沖縄から「右と左」をくっつける試み

「喜多見と狛江の小さな映画祭」主催の沖縄映画祭を観に行った。毎年、反戦・平和をテーマに、手作り感はありつつ、10日間に渡って朝からスケジュールを詰めて「小さな」とは言えないイベントになっている。去年も行って、個人宅のようなスペースに集まる人の多さと熱気に東京の文化的な「層の厚さ」を感じた。

長く沖縄の基地問題に関わってきた主催者は、これまでの伝え方では一部の層にしか伝わらず、かえって多くの人を遠ざけてしまうと考えた。沖縄文化の「あの世との境目があいまい」な死生観から理解しよう、ということで「怪談」も上映する。

高江での激しい衝突の映像には「違和感がある。内地の人に見せて溝が深まらないか」と話す。若手の作品は文化や死生観も織り込んで、そこを突破できる可能性があるとも話していた。僕が観た「人魚に会える海。」はそんな作品でとても良かった。

思い当たることがある。沖縄に友人がいて10年くらい毎年通い、事件や基地問題が報道されると心が痛む。日本と周辺の国々の矛盾と対立を抱え込まされた「被害者」だと思う。ゴミ処理場のように厄介なものを押し付けて、自分たちは快適に暮らしている。でも反基地運動に疑いを持つ相手には通用しない。基地問題は「安全保障」という人の根源的な不安に関わるので難しい。

私の身内の1人は、戦争には反対だし沖縄の負担や沖縄戦の犠牲に同情する気持ちも強い。ただし反基地運動には容赦しない。ある年代では「左翼的運動」に強い拒否感があるようにも感じる。そういう視点に立つと入ってくる情報も偏ってくる。中国による工作だとか、ゴネ得狙いで国の安全を脅かしているとか。

防衛省次官による「普天間交渉秘録」には、沖縄の政治家たちのしたたか過ぎる交渉術が紹介されている。何度も前提をひっくり返す「引き伸ばし」や地元と国への「二枚舌」の使い分けなど。ペリー来航あたりの沖縄史を読む。外国と極力関係を持たないための外交マニュアルがある。「資源もなく貧しく交易の価値のない国だ」と説明する。さらに外国の使節団をを責任者に会わせないための「ダミー官庁」まで用意した。例の身内も含めて、一部の人にとっては「いじめられる側の原因」とも見える。沖縄はずるい、と。

その身内と壱岐対馬を旅行した。ここも独自の外交術で生き抜いてきた。朝鮮半島との関係を維持するために「国書を偽造」し「その返答も偽造」する大胆さ。大国に挟まれた地理的な宿命。何もしなければ利用され奪われる。世界の常識はそっちではないか。その「常識」が通用しないのは日本(内地)と大国と呼ばれる、数にすれば片手で数えられる国だけだと思う。

結局、個人の自由を尊重するリベラルの僕と、国や共同体の安定を重視する保守の身内が、沖縄に自分の価値観を投影するという、同じ誤ちを犯している。お互い自分以外を理解できない圧倒的な強者だという「共通点」があるとも言える。

人権についての左右の「対立」も、古くは貧困対策が治安維持のためだったり社会保障政策が共産主義からの防衛という動機もあったことを考えると、価値観は違っても双方のニーズを満たす方法があるはず。排外主義や優生思想で何か美しいものが破壊されている印象だけど、元々美しい何かは無くて、妥協とゴネ得と、時に冴えわたる英知の集合体に過ぎない。それを「人権」というラベルでまとめたので、それが揺らぐと全て失われそうな不安に襲われる。