日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

(9) シセツ職員もつらいよ(9)「最低でも職員」

「憧れの」ヘルパー暮らしが壁にぶつかっております。

介助中も影響が出て「居眠り厳禁」な人の前で意識が飛んで「NG予告」を受けたり、自然にやってた着替え介助ができず怒られた。初心に返り、キツめのパーカーを着て夜中ひとり着脱の練習をした。全国の自立生活支援をがんばる地域の中で、多摩に来てよかったのは当事者も支援者も多様で幅広いこと。落ち気味の時もハッとするような助言、逆に「そんなんでいいの(汗)」な心温まるフォローをもらえる。僕のような未熟な介助者が育つ土壌がある。

「未」熟なのか、青いままもう成長しないのかも。自分を確立できないでいるけど、それが当事者を中心に定まらず漂うような「支援という仕事」に合うのかもしれないし、輪郭の定まらない(いい意味です)たこの木に厚かましくも書けているのかもしれない。

先月のハンセン病療養所の記事は「国策を糾弾する!」みたいな終わり方で1ヶ月居心地が悪かった。「身の回りにもあって自分も加担してるな」とか「その時代にいたら同じことやってるだろうな」など後半に弱気なことを書くつもりが文字数が足りなくなった。

この仕事を始めたころ。大学の掲示板で見つけた知的の施設でアルバイトしていた。「バイトの身分で大人に指示・指導する」ことがとにかく嫌だった。道義的にというより「フリーターが偉そうに」と影で言われてそうでいたたまれない。

もう福祉には関わることもない、と卒業旅行のような気持ちで隣の身体の施設でバイトを始めた。ここは楽しかった。施設暮らしに鬱屈ぎみの友人ができ、介護保険ブームが過ぎて減ったボランティアの代わりに、外出介助など重宝がられた。興味が出てきて友人の障害名「脳性マヒ」でぐぐって「青い芝の会」の本を買った。ショックというか、ふつうに面白くてワクワクしながら読んだ。こんな面白い仕事はないと思った。

正職員として働こうと決めて、知的と身体の施設どちらか選ぶことに(選べる立場ではないものの、どこも人手不足なので)。どちらに就職しても、それぞれの利用者と関われるといいな、と考えていた。違う障害を行き来すると精神的に楽だと感じていた。障害の区別というより「指示通りに考えず介助」することが多いか、「本心・背景・裏?・人間関係をさぐりさぐり支援」が多いかという違い。

身体の施設には友人もいて、割ととオープンな社風で楽しそう。でも職員になれば友人関係は成り立たない。外部の人間として遊びに来るのがいいと思った。友人たちと出かけたり、何か始めることがあっても、基本的には本人の意志が尊重されるので、個人的に付き合える。面会簿はあるけど書かないでも、アパートを訪ねるように入っていける。

逆に、知的の施設を訪ねる自分をシュミレーションした。するとどうやっても本人にたどり着けない。どこに行くか、どんな人間関係があるか、もちろん本人から出発するものの、施設の方針はもちろん、支援計画に沿っているか、親兄弟や担当職員の意向と複雑に絡み合って閉じている。会ってあいさつしたり、イベントで話したりはできても、その先の関係はイメージできない(今もできないかも)。家族に当事者がいなくて、知的の「社会」と関わるなら「最低でも」職員にならねば。という結論になった。