日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

綾渡の夜念仏

豊田市足助町は紅葉の香嵐渓で有名です。30分も走れば着いてしまう隣町ですが、かなりイケてる山の町です。シーズンの夏や秋はどんどん人が押しかけるけど、町外れの「足助城」を訪れる人は少ない。山城が復元された直後に見学に行ったら、シルバーボランティアのおじさんが熱心に歴史の話をしてくれた。山城を作るような険しい山を、アクセルを踏み続けて登る。なんでここに人が住んでるの?トヨタcityらしからぬ不合理さを感じてた。そのずっと奥の奥に目的地があった。

3年間通い続けた「風の盆」に今年は行けそうにないけど、これを見られたから、それでもいいかと思う。300年か400年続いているという。現在26戸しかない綾渡の人々が守り続けた祭り。もともと団地暮らしで盆踊りに縁がなかったから惹かれるんだ。表面上チャカチャカと踊りながら、先祖の霊と出会ってもいる。風の盆は笠の影で表情が見えない。夜念仏も笠をかぶる。それが死者と生者を分からなくする。そもそも、夜念仏は暗くなってからやる。集落の人の灯りは最小で、一面の黒い山から冷たい空気が流れてくる。顔どころか体も見えない。

基本的に2つの提灯しか見えない。一団が唱える念仏と、手にもった鈴というか鐘の音、砂利を踏む音だけが聞こえる。ゆっくり、ほとんど進まない。1時間かけて150mくらい。
たぶん盆踊りの始まりは、こんな感じだったんだろうな。車で40分のご近所なのが不思議で、奇跡みたいだ。観客のおしゃべりを止める、おごそかな儀式を作るのは、坊さんではなく村の人たち。その静かな儀式を、おじさんカメラマンのストロボが切り刻んでしまう。

本当に、何なんだ。風の盆でも思った。でも風の盆ではマナー違反は排除される。観光化を利用し、向きあう覚悟も力もある。なにより八尾の町には、あたりが見わたせるくらいの電灯仕込みの提灯が石畳を照らす。綾渡では、並べられたローソクが、かろうじて田んぼに落ちないように境界を示すだけだ。そのローソクも直前の夕立で何割か消えてしまった。風の盆でのストロボは雑音だけど、綾渡では1発焚くだけで舞台を壊してしまう。

朝、調べ物のついでに見つけたサイトの、野鳥愛好家の言葉が引っかかっていた。

日米間の愛鳥家数の大差には種々の要因が考えられる。その一つは、日本人の『自然は人間の為に存在する』という思想と米国人の『自然はイコールパートナーであり、自然そのものにも生存権がある』とい自然保護に対する基本姿勢の違いにあると言えよう。
アメリカ文化に見るバードハウスより

時間を置いて読むと、書いた人は博識で文化人ぶってるくせに「日本人と米国人」は分類がアバウトすぎる。情として日本を弁護してしまうけど、やっぱ宗教としては砂漠の宗教と温帯の宗教では、自然との関係は違ってくるだろう。良い悪いは関係なく。

これまで逆のことを聞いてきたからショックだった。外から見ればそう見えるのか。宗教や思想の上では自然との一体感があるけど、現状の態度としてはそうなってない。

そして海外を訪れるたびに、自然に対する日本人と外国人の違いを痛感しました。日本人は、環境保護、野鳥の保護と鳴り物入りで大騒ぎしますが、海外の友人たちにとっては、環境保護、愛鳥は毎日の生活の一部でした。

逆の言い方を何百回も聞いてきた。基本的には、海外のものにかぶれた人が「だから日本は」とか言うのは反則だと思ってる。客観的なように見せかけて、自分が好きなものと、ついでにそれが好きな自分とを持ち上げている。(ひねくれてるなあ)でも、これも嘘じゃない気がする。アバウトに西洋人がやってそうな、仕事と同じくらいに情熱を傾ける趣味もないし、自然が好きでも何か行動を起こすことも自分にはない。

若者の携帯カメラのLEDライトはシャッターに同期しない穏やかな光で、一番の害は、写真愛好家のおじさんたちが持ってくる外付けの大きなストロボだ。八尾では、そんなに踊り手が撮りたかったらモデルを雇ってスタジオで撮ればいいと思った。言う勇気はなかったけど。

暗さも静かさも怖いような不安な感じも、夜の風の盆の魅力なのに光を照らして何が撮れるんだろう。重いレンズや機材をいっぱい持ってくるより、暗くても撮れる技術と、自然の町の灯りを使うポジションを考えればいいのに。分かってない人におもちゃを売らないでほしい。

感じわるいことを書いたけど、暗闇になれた目にフラッシュが刺さるようだった。途中から離れて見ていた。延々とフラッシュが焚かれ続けた。客は数百人いたから、たぶん数十のストロボが交互に、一斉に光っていた。赤目防止の明滅する先行フラッシュやる人がいる。頭がおかしいんじゃないか。台なしにしてるのを気づかないのかな。隣の人も言ってたから僕だけじゃない。

自分もふくめて最近の若者はひどいもんだけど、大きなカメラを担いで嬉々として動き回っていたのは年配のおっさんたちだった。なんで気づかないんだろう。耳をすましてやっと聞くような繊細なものに気づかず平気で壊してしまうのは、自然に対する態度と近いかもしれない。一番苦労して助け合って生きてきたはずの年配のおっさんたちがこれでは、西洋かぶれの野鳥の人に「日本人は」と言われても言い返せない。

夜念仏のあとに盆踊りをする。楽器はなくて一人が唄うだけ。集落のみなが踊って、その囃子?が揃ってるのでけっこう盛り上がる。途中交代した唄い手が若い声で、歌い方がヴィジュアル系というか若むけな感じだった。若手がちゃんと受け継いでるんだな、かっこいいなあ、と覗きに行ったら小柄なおじさんだった。