日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

星になりました

遅番が終わるとよく近くのコンビニで立ち読みする。書籍の品揃えがすばらしくて、一般のビジネス書なんかも多い。カバーなんかかけない。入り口のポスターでは、ファミリーマートの制服を着た子どもたちが「おかえりなさい」と笑っている。暖かくて明るい店内に迎えられて、ゆったりとマンガを読む。看板に偽りなし。

懐かしい『コブラ』を読んでいると、「お久しぶりです」おじいさんが具合が悪いから、と帰省していたNくんだ。「本読んでるから、声かけないようにしようと思ったんですけど・・」ここでバイトしている。良い子なので店長が手放さず、学生の4年間勤めあげた。この子じゃないけど、いつか立ち読みしていると店員が後ろに立った。何か言われるかと思ったら、僕の脇の下をくぐって手が伸びて、マンガを一冊取って、足早にレジ裏に去っていった。リアルに家庭の匂いがする店だと思う。

おじいさんの具合はかなり悪いらしく、卒業して実家に戻ろうか迷っている。1月の今頃そんなこと・・と普通は思うけど人のことは言えない。今年はかつての就職氷河期をこえる就職難らしいので、誰も人のことは言えない。他に「まったく深刻でない」理由はあるようだけど。

自分も似たようなことがあったので参考意見を話したけど、家で思い直す。僕は学校を半年休んだけど、そもそも行ってなかった。いや、あの頃は行き始めていたのか・・。先延ばしにしたいことがあったんだろう。


暗い内容なので、すこし悲しげな写真を。なにが悲しいかといえば、まん中のバスの淡い水色だろうか。名護のバスターミナル

家族みな一緒に暮らすのは20数年ぶりのことだ。あんがい楽しい思い出も多い。尿タンクの続きで、同じ日がない。良いときも悪いときもある。社会参加しにくい何かをかかえる人がいると(障がいでも引きこもりでも)、良くも悪くもコントラストの激しい毎日になる。明るい外からは白黒に見える。

もっと悲惨な人や家庭はたくさんあるので、それが「豊か」だと言いきることはまだできない。ぼくらは、弟がヒマ人だったことも含めて恵まれていた。普段より笑いは多かった。
弟の誕生日のころは酸素を使っていて、ローソクをつけたケーキを部屋に持っていったら爆発的に燃え上がった。電気を消した狭い部屋に5人が入ると、この家族だけ世の中から孤立している感じがした。母の友人が、何かと理由を見つけて顔を出してくれるのがありがたかった。

亡くなった日に、何人かの知り合いに電話で知らせた。病院の駐車場の車の中でかける。その前に、うまくしゃべれるか予行演習する。これまで数年間口に出すことも考えることも避けてきた言葉がある。自信がない。

「兄貴が死んでしまったよ」本番では、舌が回らなくなり何度か言いなおした。相手は、ふだん屁理屈を言ってる弟も、さすがに感極まっていると思っただろう。違うことはないけど、その時は「体は言わせないようにしてるけど、どうにかして言ってやろう」と考えていた。これが禁忌キンキ、タブーなんだ。

自然言語の本で読んだことがあった。宗教心の篤いアメリカの家庭で育った人に、いわゆる4文字言葉が発話できないことがある。wikipediaによると、「死」を避けて「鬼籍に入る」「この世を去る」「永眠される」と言い換える。

闘病中は、なんとなく「難しそうだ」「もう良くならないかな」「だめかも知れない」などと言い換えて伝えていた。十分伝わるし、イメージも浮かぶけど、具体的な言葉は「死」は使えなかった。これまた兄には悪いけど、すごく面白い話でもある。

大学では言語行動論という講義があって・・説明しようと思ったけど墓穴を掘るのでやめた・・、とにかく(口に出す)言葉は、人の心身全体に関わっているというような話。口から出た言葉は、相手と自分の行動を変える力であり武器にもなるから、守る方法もある。

wikipediaの言い換えは、隠喩な例えで相手に連想させる。文学などでわざとらしい例えを使うのも、ただ風流だったりカッコいいからじゃなく、意味を相手にゆだねることで、腕をつかんで怯えさせず、武器を地面に置くことで信用されやすいのかも知れない。家族で使った言い換えは、何とでも意味のとれる形容詞をさらにボカしている。受け取れる体力に応じて意味を選べる。言う方も具体的なイメージを載せたくない。

何年かかかって全然読み進まない本によれば、隠喩は、人の言葉だけでなく意識も作ってきた重要なものだという。まあでも「兄は星になりました」とは言いたくないし、他のどれでも負けた気がする。でも結局負けてしまった。


暗い内容なので、すこし悲しげな写真を。なにが悲しいかといえば「イラブチャー」の、やっぱり青色だろうか。那覇の公設市場にて。ここ面白かった

わりと淡々としているつもりだった。実際、その時は付き添いをさぼって近所のラーメン屋に行くところだった。弟がいると余計なことをされるので、居ない時を狙ったと思っている。

あまり淡々としているのもどうかと思う。6年たったけど、これからいろいろ考えたり、人並みに感極まったりする気がする。小学校に上がったころには既に離れて住んでいたので、いっしょにいる時間は少なめだ。物理的な時間はけっこう大事かも知れない。

兄が死ぬのは慣れていた。ぼくが小2で兄が県外の学校へ行くときは悲しかった、ようだ。レゴで子供としては巨大なピラミッドを作り、棺に「レゴの兄」を納めた。長期帰省で帰ってくると、よみがえってピラミッドから出て机に立たされる。吉村先生の活躍でエジプトが流行っていた。

自分は感情が乏しいと思っているけど、言い換えと同じで間接的なやり方はしている気がする。いま思った。

兄が何度目か倒れたのを見舞って自分のアパートに帰りテレビを見ていた。再現映像つきの世界のニュースをゲストみんなで見る番組で、「最高のクリスマスプレゼント」というのがあった。心臓移植が必要な難病の女性がいて、適合するドナーが現れるのを待っているが、見込みはない。いよいよ危ない時に、女性を心配していた身内のだれかが不慮の事故で脳死状態になり、クリスマスのその日手術が行われ、女性は元気になる。

内容はちがうかも知れない。いま書いてても微妙な話だし、当時もくだらないなと思いながら泣けてしまった。心臓を運ぶため、無駄にドラマチックに警察が交通規制かけたりヘリが飛んだりする。テレビはこういう小細工をする、とバカにしながらぼろぼろ涙が出てきた。

直接感情を出すのは自分にとってタブーだったのかもしれない。いまの仕事で、感情を出さなければならない時と、「出ちゃう」場面がたくさんあって、だんだんバランスが取れてきた。良くも悪くも。(感情労働とか言う。ぼくにとっては感情リハビリか)