日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

権利条例・あってもなくても

沖縄セミナーのつづき。障がい者の権利「条例」について。

障がい者の権利「条約」が2006年に国連で採択された。条約の手続きは面白い。採択のあと「署名」が解放され、署名した国は条約を「尊重」する義務を負う。「批准」して、立法府の承認を得て、条約に従うことを表明する国が20を越えると、条約が「発効」したことになる。批准した国は、自国の法律と同じように実施を義務づけられる。2007年5月3日に発効した。

日本は署名し、批准はまだ。批准は、就労や教育の場での差別に厳しくなるので、嫌がる人々はいる。でも、権利擁護団体も、批准を急いではいない。「上からのお達し」では定着しない。効果がない。署名→批准のスポットライトを受ける期間は、法律の対象になる当事者同士が議論を深め、また、当事者にかかわらず関心を盛り上げて、「生きた」法律を作るための準備の時間になる。


伊江島・ニャティヤ洞。元はつまらない写真でしたが、トリミングの傑作です。聖地であるこの場所の力によるものでしょうか。ちなみに置かれた石には子宝の御利益がある。子宝祈願で全国を回った知り合いの夫婦がここで大当たりしたと聞いた。じつは、本物は持ち去られ、今あるのは代理の「ただの石」です

有名な千葉の条例を皮切りに、全国の地域で、障がい者の権利「条例」を作る運動が起きている。
使う知識のある人だけのもの。自分のことについて書かれていても、読んでも分からない。法律はとっつきにくいし、わざとそう作られているように感じる。一般人には縁の遠いもの。権利擁護の運動をすすめてきた人たちは「なぜ、自分たちの権利を守る法律を、自分たちで作らないのか?」と言う。もともとは個人の権利を守るためのもの。必要だと多くの人が認めれば法律になる。

第四条 一般的義務
1 締約国は、障害に基づくいかなる差別もなしに、すべての障害者のあらゆる人権及び基本的自由を完全に実現することを確保し、及び促進することを約束する。(略)


国連・障害者の権利に関する条約 公定訳文案より)

福祉職だけど、この「すべての」を言い切る自信がまだない。各地の権利条例(案)に出てくる「障がいがあってもなくても」同じように暮らせる権利。聞こえはいいけど、「障がいがあってもなくても」そう誰も幸せになれそうにない時代に、企業にどんどん雇わせたり、高給の教師を増やしたり、エレベーターを作りまくったりできるのかな。

ただ、「障がいがあってもなくても」には意味がある。健常者に義務を課し、権利をぶんどるのではない。対立構造を作らない。「障がいがあってもなくても○○できる権利」従来の、とくに但し書きのない権利や法律は、そして「社会」は、健常者のものだった。その「社会」を現実に合わせる。

「誰もが一度障がい者になる」高齢社会で、そう誰も幸せになれそうにない時代では、むしろ現実的かもしれない。人口の5%が(従来の定義での)障がい者と言われ、要介護(支援)認定の高齢者も5%にせまっている。知的と精神障がいには、ボーダーラインの人が山ほどいると思うし、どんどん増える。

「健常者」は、大した多数派じゃない。1人ひとりのニーズがバラバラになれば、画一的な法律やサービスは効率的でなくなる。

「ユニバーサル・デザイン」がヒントになる。資料のビデオは、権利条例についてのシンポジウムだった。「障がい者にはお金がかかる、というイメージは違う」パネリストの一人が呼びかける。「今日この会場にどうやって来ましたか?」

誰もが使う、道路や橋には莫大なお金がかかる。それらは健常者に合わせて作られてきた。そのうちのわずかでも障がい者のために使ってほしい。また「学校がバリアフリーでないから。対応するには費用がかかりすぎるから」大学が受験を拒否する場合も、「はじめからユニバーサルデザインの学校を作ればいい。それなら就学の問題は起きないし、障がいのない人にとっても快適な学校になる」