日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

チビチリガマ

座喜味城の頂上で知花さんの説明が始まる。米軍は、細長い沖縄本島が狭まっている読谷から上陸し、南北に日本軍を分断しようとした。押し寄せる上陸のための船で、海面が見えなかったという。

男たちは軍に取られ、元気な人は北部に逃げた。残された老人と女性と子供は、上陸が迫ると洞窟にこもった。1キロしか離れていない2つの洞窟(ガマ)に分かれた。1945年4月1日に上陸が始まる。日本軍は逃げ、地形が変わるほどの爆撃で、何もなくなった読谷地区に「無血」上陸する。

2つのガマはすぐに発見されるが、チビチリガマでは84人が集団「自決」し、シムクガマでは1000人以上の全員が生き残った。一方は悲惨な戦争の象徴となり、一方は悲劇の中の「奇跡」と言われた。


金城実さんの鬼面。伊江島・阿波根昌鴻さんの反戦平和資料館
去年訪れたときは、雰囲気に圧倒されて何も考えなかった。1年たったら少し変わった。「戦争は悲惨だ。戦争を無くそう」知花さんが伝えたのはそれだけじゃなかった。84人の6割は18歳未満の子供や赤ん坊だった。「自決」はできない。「強制死」のほうが合っている、という話もあった。

2つのガマにいたのは地区で分かれた同じような人たち。リーダーが違った。チビチリガマには中国から戻った看護師がいた。中国での、日本軍の捕虜や一般市民への扱いを見ていたかも知れない。シムクガマにはハワイ移民経験のある老人がいた。「米兵は民間人を殺さない」と住民を説得し、外へ出て米軍と交渉した。

戦争が悲惨なのは知っている。でも、悲劇のエピソードには「経験しなければ理解できない」という補足がつくので、確実に風化していく。知花さんは過去の話をしていない。悲劇を生むのは教育だと。知花さんら読谷の人たちは、今でも基地反対運動という形で戦争と関わりつづけているから、昔話にはならない。

チビチリガマは、母親が子供を殺す現場だった。「生き物としてありえない。そこまで追いやったのは当時の教育のせい」当時の沖縄では「非国民」への差別に加えて、沖縄人として本土日本から受ける差別もあった。「お国のために」尽くさないと生きていけない。皇民化という教育は、より厳しかったという。

日本の関わった戦争を美化するのか自虐的に見るのか。当時の価値観のもと、誰もが命がけで正しい行動をしていた。そこだけ見れば美化することもできる。

・・まわりくどいのは、政治的な話をする自信がないので。8月になると、いろんなメディアからメッセージが届けられる。「戦争は悪い。でも、極限の状況にあって人の心は美しい」大規模な戦争をするのは人間だけじゃなかったっけ。戦争を、自然発生するインフルエンザみたいに扱うとけっきょく何も学ばない気がする。国のためでも、子供のためでも、一見美しく見える信念が「チビチリガマを薄めたもの」に見えるようになった。

シムクガマは「奇跡」ではなく、限られた情報の中から正しいものを選び取る目と、より正確な判断が命を救った。米軍と交渉したハワイ帰りの比嘉さんは、「非国民」として差別の対象だった。異なる価値観を持つメンバーがいると、状況が変わったときに力になることもある。

「戦争の極限状況でこそ、人の命の尊さが分かる」だから若い人は安易に自殺しないで。「安易に自殺する」ように見える状況がどれだけ悲惨か、なんで分からないのかな。戦争で、人間の醜さも美しさも見てきた人が、トボけたことを言うのを見ると残念だ。「はい、命を大切にします」と、素直に答えてる中学生も残念だ。戦争で家も家族も奪われた人と、現代、家族や社会から見放され、孤独死して1月後ドロドロの状態で発見される人がいる。どちらが悲惨か比べられない。(最近TVで「特殊清掃」の特集を見た影響)

NHKきらっといきる・エイサー夏物語〜知的障害・知花未来世さん〜

教育が大事だし、誰かが作った教育制度を疑い、チェックする広い視野も必要。知花さんの娘さんは知的障がいがあり、子供が小さい頃から教育行政とも戦ってきた。知花さんの反戦の戦いと教育は、チビチリガマでつながっているのだと思う。