日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

『アンドリュー・ワイエス展』

わざわざ名古屋まで出かけたのに、あっけなく用事が終わってしまう。どうしようかという時、ちょうど県美術館で「アンドリュー・ワイエス展」をやっていた。去年の12/6に風邪でフラフラのなか探した図録が出ていた。12/25初刊となっている。おしかった。「近現代美術〜木村定三コレクション〜」近現代なら僕にも分かる。

ワイエスさんの画集を一冊持っている。なんで買ったのか忘れた。カッコつけたかっただけかも知れない。確かにかっこいい絵だ。布団に入ってページをめくり、相変わらずなにがいいか分からんなあ、と思いながら寝る生活を一時していた。

Andrew Wyeth

Andrew Wyeth

テレビで見たのが最初だった気がする。「海からの風」だったかな。写実的なので「実際の光景なのか」という議論になった。ワイエス氏がインタビューで「くだらない議論だ。作品の小さな部分は実際あるものかもしれないが、どこにもない風景だ。すべて再構成されている」というようなことを話してた。

今回の展示は、本人所蔵のスケッチなどがたくさんあって、制作過程を追えるようになっている。多いのは、鉛筆のスケッチを描いて、水彩でサッと書いて、さいごにテンペラという技法で写真のような細密な絵を仕上げる。たばこを手に物思いにふける姉のスケッチ。解説には「鉛筆で彼女という人間を完璧に描けている。色彩は必要なかった」ということでスケッチで完成することもある。

大量の習作ののち、テンペラの本画を描く。それが最初とぜんぜん違う。「ガニング・ロック」という場所に釣りをする男がいる風景、を描いていたのが、男に集中していって黒い背景に顔だけになってタイトルはそのまま。部屋のかたすみで採れたばかりの卵を掃除する男が、卵と秤だけの「卵の計量器」という絵になる。

解説は読むべきか。作り手はたいてい解説は読むな感じろと言う。評論なんか悪だと言う。豊田市美術館のブラジル人アーティストの展示で、大きい部屋に50枚の似たようなパネルが並んでいた。それぞれのパネルには家族写真が2枚、その家の居間で撮ったもの。まんなかに、ランプをいっぱいぶらさげた電気屋みたいな写真が1枚。あきらめて解説を読んだ。

「private light, public light」アーティストは電灯を50用意していて、協力してくれる家庭に出向いて居間の電灯と交換してもらう。その前後に家族を集めて写真を撮る。裸電球、シャンデリア、ブラジル社会は階層も人種も分化も多様で、ライトはその象徴だと。集めたライトを並べて点灯する。それが表向きの展示になる。「ブラジル」という一つの色で照らされた、それぞれの家庭の居間と、多様な光が混じり合った色合いに照らされた空間。それがブラジルの現在だ。なら面白い・・いま書いててブラジルそうなのか、とすごく納得させられた。アーティストにやられた。

同じ職場の人が解説に気づかず「わけ分かんない」と次へ行ったそうだ。残念ながら、次の部屋からは解説があってもわけ分からん。ビデオカメラにコップでふたをして車にくっつけて街を走る。ビデオカメラをONにしてストラップをぶんぶん振りまわした映像、とか。

評論はいらないけど背景くらいは知りたい。こんどの展示はその点よかった。説明が多いという人もいたかも知れないけど、僕にはちょうどよかった。「柱のカモメ」「<雪まじりの風>習作・カラスの群れ」が気に入った。これには解説はなかったから、何にせよ良いものなんだけど、背景を知った上で見ると「物語を見つけようと」じっくり作品と向き合う時間ができる。無駄をそぎ落として、初めて見るものを突き放そうとする作品と、そういう時間がとれるのがいい。それで、物語を見つけてはダメになる。バケツと青い扉だけの「クリスティーナとアルヴァロ」に安易なストーリーをつけたら何も残らない。うわー変な評論ぽい。なんでこうなるんだ。。

阿蘇の写真。ワイエスっぽい風景だと思った。怒られるだろうか。この写真は気に入ってるけど使う機会がないのでこんなところで。ちなみに

カメラでリアリティを捉えられるとは私は思いません。単なるイメージに過ぎません。私にとってリアリティはそれ以上のものです。だから私は、カメラと私が求めているリアリティを比べてみようなんて一度も考えてみたことがないんです。


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過程を追ったのはいいけど、完成作品を持って来れなかったものも多い。習作がぞろぞろ並んだあと参考としてカラーコピーしたぺらぺらの完成品が貼られている。金返せ、という気は起きない。無駄なものはいっさい描かれない、省略と象徴によって、心地よい連想やバランスはたち切られる。完成品がないことも、もの足りないより、見逃さないように、という風に。

じつは1月からの会期中に亡くなっていた。会場のどこにも情報はなかった。出口の「略歴」の最後に「2009年1月16日 91歳で逝去」という小さなシールが貼られていた。