日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

掛川城

東海の旅。

1日目。夜に磐田スタジアム近くで待ち合わせ。磐田ICを降りてから道に迷う。「スタジアムね、だいたい分かるよ」と安請け負いしたのに、遠く海まで行ってしまった。豊田市民にとってスタジアムとは、10キロ先から見える自己主張の強いモノです。なので油断していた。橋も図書館も、夜は光るもの。少し恥ずかしい。不況のいま、豊田の近未来的な建造物が万博の跡地みたいに見える。大阪万博1970のね。

磐田の出世魚に会いに行く。古い友人が住むヤマハの社員寮で泊まる。寮もいろいろだ。ここは流しのみ部屋にあって、共同の大浴場があり寮飯が出る。中学からのべ15年間「寮」暮らしをしてきた。「寮」を漢和辞典で調べたら「名乗り」という「名前でのみ使える読み方」として「いえ・とも・まつ」とあった。深いぞ。たしかにそんな感じだな。良いところだけとれば。

翌朝、となり町の掛川城に行く。どこに行こうか、旅雑誌を読んだけど何もなかった。掛川城天守閣は平成5年に再建された。木造で、当時の建築方法に忠実に復元したのはここだけだそうだ。


どこの城にもあるミニチュア城。ニュータウンや工場がはやっているけどミニチュア城がそろそろ来ないかな。これは陶器で出来ている。
天守閣は本来戦時の要塞で人は住まなかった。当時の人は、城主が住み行政の本部でもあった「御殿」のことを「城」と呼んだ。天守閣の最上部は緊急時のみ城主が住む部屋になった。そういえば窓にフスマが付いている。下の階にはなかった。

殿様の居室なので畳敷きだったが「木造建築は高さ13メートル以下」という法律に触れないため、今は板のまま部屋ではなく「屋根の一部」ということにしてある。この話を親父にしたら激怒していた。くだらない決めごとを、くだらないと思いながら守る役人も大変だ。入所施設職員としては、役人その人自身がダメにならないためにも柔軟な対応がいいと思う。「畳は展示資料」にして歩くところにじゅうたんを敷くとか。

解説員のおじさんが言うには「まじめな殿様でも参勤交代からもどったときに泊まるだけ。2年に一度だね。10年も天守閣に登らない殿様も多かった。安土城だけは信長が住んでいた。」観光客はてっぺんを目指すが生活するには不便だ。要塞として「石落とし」や鉄砲の穴が空いているが、冬はスキマ風どころじゃないだろう。

現存している戦いに使われなかった飾りの天守閣より、地味だけど御殿とか、戦国の山城のほうが面白そうだ。当時の御殿がのこっているのは全国で4カ所しかない。京都御所高知城本丸御殿、あと埼玉のどこか。山内さんは掛川城を捨てて高知へ行った。帰省したら御殿を見に行こう。スリッパ持参で。軟弱な足裏が板ばりの寒さで感覚がなくなった。「凍傷になる。凍傷になるから出よう」なさけない。

御殿のとなりに美術館がある。「エアコン効いてる。靴であがれる」となさけないことを言いながら。

http://lgportal.city.kakegawa.shizuoka.jp/bunka/b_sisetu/ninomaru.jsp

工芸品の展示がすごかった。日本人は手先が器用、小さなものを精密に組み立てるのが得意。その通りだと思った。キセルケース、懐紙入れ、印籠。すごいけど、どれも僕には必要ないものだと思った。懐紙って今で言うティッシュみたいなものらしい。現代の懐紙入れは駅で無料で配られていると聞いたら江戸の市民は驚くだろうな。日本人はすばらしいかもしれないが能力を使う先がちがう気がする。