日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

『ふるさとをください』

30周年記念映画 ふるさとをくださいのページ (きょうされんの映画ページ)

いい映画を観た。30過ぎたら、ハッピーエンドならなんでも良いらしい。なんか心配だ。少しディティールがしっかりしてて、セリフが嘘っぽくなければ言うことない。福祉の啓蒙映画で、特にドラマで、良いと思うことなんかなかった。ドキュメンタリー「こんちくしょう」は良かったよ。

和歌山の田舎町に精神障がい者の作業所ができた。付近の住民の不信感が高まり衝突が避けられなくなる。主人公の女は、父親が反対派のまとめ役で、作業所のスタッフに恋をして、障がい当事者同士の結婚もあって、というあらすじ。

多くの観客には、ラストの反対派町民の心変わりが急すぎたようだ。上映が終わって外で余韻にひたっていると、スーツのおじさんが映画批評をしている。「ドラマ慣れした視聴者を引きつけるため後半の山場でハラハラする場面を持ってくるのが今のやりかた。うまく盛り上げたけど着地に失敗した。説明不足だよね。ジェームス三木がラクしたんじゃないの」気に入らないので僕の意見を。
最後のハッピーエンドは要らなかったかもしれない。でもおっさんが言うような「みなが納得いくような着地」をさせなくてよかった。反対派は、さまざまな理由をつけて締め出そうとする。感想に「障がい当事者が観たら嫌な気分になる」と書かれるほどストレートなブーイングが続く。「子供の結婚に差し障る」「提案として、施設に鉄条網を張るのはどうか」「キチガイがうつる」キチガイキチガイとずばずば言うもんで、見てて心配になった。

和解の見込みはない。三木さんはどうしたか。うやむやにした。(写真は関係なし)

住民が信頼を寄せる父親が、自身の変化をただ率直に語る。疑問には答えていない。説明はしない。(説明は精神科医がしていて、観客はそれを見ている。うまい脚本だと思う。貫禄のありすぎる精神科医は、結婚式で袴をつけると組長に見えた)それでハッピーエンドに突入する。

必要なのは納得や理解じゃないと思う。もし、話を聞いた住民が悩みつつ受け入れていく課程を描いたら嘘になる。行きつけのコンビニで10回くらい見かけて「そういうものか」と思う。1年経って特に問題もなかったので「まあいいか」と思う。友人がその施設で働いていた。あいさつしたら返事が返ってきた。お互いを知らないことが不信感を生んだ。不信感はいろいろもっともらしい理由を生む。理由を一つづつつぶしても不信感は消えない。知るだけでいい。住民にとって仲間である父親が作業所メンバーの存在を認めたことで、目を向けるきっかけになった。こうなったら仕方ない、と思ったかもしれない。

理解は必要ない。働いて生産して、という従来の社会の価値に乗りにくい人たちだ。彼らを受け入れるということは少なからず地域の価値観に変化を迫る。従来の価値観のまま理解は出来ないし、仮に出来たら、それは彼らの望まない形に歪められている。

唐突なハッピーエンド。三木さんは観客の理解も拒んだ。実際は、悩みは深まりもっと困難が立ちはだかるかも知れない。そんなことはどうでもいい。これは万人受けする悲劇の芸術作品じゃない。反対派には折れてもらわなければ困る。折れないなら諦めて。誰もがハッピーな結末が必ず来ると信じるしかない。観客の感性にあえて沿わない。脚本家が脚本を否定する。かっこいいじゃないか。

ちょっと書きすぎた。個人的には、父親の演説で終われば自分好みだ。でも観客には子供も様々な障がいを持つ人もいる。楽しい気持ちで終わるほうが映画の目的に沿う気もする。批評家ぶった大人たちは対象ではなく、喫煙コーナーでぶつぶつ言うのも「脚本通り」かもしれない。