実験2つ
老人介護で泥臭くも暖かい発言を続ける三好春樹さんが雑誌「ブリコラージュ」で書いていた話。引用したかったけど見つからなかった。
「人は動くことで自分の世界を作っている」演劇を仕事にしている人がいて、奥さんが片マヒになって家事などを時間をかけてどうにかやっている。奥さんを手伝おうとすると、その旦那さんが止めて最初の言葉。そして「人が世界を作る作業の邪魔をしてはいけない」。動く腕の反対の肩に洗濯物を引っ掛けたまま片手で物干しに吊るす。ゆっくりと。「その振る舞いが美しいと思う」
(荒木の記憶より)
右手をケガした。小指なので、たいして日常生活に支障はない。もしちぎれてたら障がい者手帳をもらうことになった。バランスが崩れた世界を作りなおす作業をやってみる。左手で箸を持つ。鍵を回す、頭を洗う。右手でもできるけど、そういうルールということで。
10日、出来るときは左で箸を使った。やればできるものだ。手のひらが筋肉痛になる。今日はカレーを食べに行った。スプーンだけだから楽できると思ったら難しい。ルーが残る。皿を回したり、傾けたり、左手がふだんしていることが大事なのだった。利き手はサポート側に回ることに反抗しているようだ。右手は左手に合わせて動けない。利き手は「利く」のではなく、行為をリードする「役割」を持つだけだと思った。深い、のか?良いことは、左手でカレーを食べながら右手でメモ帳に予定を書けることだ。
雑誌が見つかったので正確に引用する。
たが、それ以上に私が感動したのは、真矢さんの介護者として参加していた夫の高津住男さんである。彼は真矢さんの動作をそばでじっと見守る。余計な手も口も出さない。介護者が一番苦手とするところだ。
「なんで見ていられるんですか?」と尋ねると「人は動くことで自分の世界を創っているんですから」との答え。さすが劇団主宰者だけあって、人の動きとは何かという問いの中からケアの真髄をも探り当てている。
そうか、手も口も出してしまう二流の介護者は、老人の世界の破壊者なのだ。
ある日、高津さんは家の廊下で真矢さんに出会う。真矢さんは洗濯物を干そうとして、よいほうの手は手すりを持たねばならないから、洗濯した衣類を自分の肩に何枚もかけて歩いていたのだという。
「それを見て感動しました」と高津さんは言う。俗っぽい世間の“主人”は「みっともないからやめろ」なんて言うのではないだろうか。自分だけの世界を創造しているというのに。
(「介護夜太話」より抜粋)
自分の記憶がいかにテキトウかというもう一つの実験。「美しさ」の話は高津さんだけど、相手はぜんぜん別の人だった。「ゆっくりと」なんてどこにも書いてない。
めったに行かない病院は、患者の扱いが気に入らないのであまり行きたくない。職場の施設も似たようなものか。
追記 2008/10/25
ぞうきんやタオルを「絞る」のは両手あってこそ。そう思っていた。怪我してから綿のアカスリタオルは一回握ったあとべたべたで桶に突っ込んでいた。今日発見した。
左手でだいたいたたむ。あぐらをかいて両足裏で端っこを挟み、足裏をすると回転して絞りの準備ができる。左手でしっかり絞れる。ちょっと感動した。
こうやって日々発見しているかというと、面倒なので包帯も外して、重いものでも右手で持ってしまう。直りが悪い気がする。