日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

沖縄 読谷村・伊江島

8月に沖縄にいった。『人に出会う』というタイトルの勉強会に出た。その報告をのせます。いいかげんなので直す予定。日記と外向きの文章に違いをつけられないのはなぜ?

忘れえぬ伊江島と見知らぬおじさん。旅を象徴する一枚だ。


報告「人に出会う、歴史に出会う、自分に出会う」

池田先生のお話の途中で帰った荒木です。帰りのスケジュールはギリギリでした。本部港で若者3人とタクシーを乗り合わせ、那護からの高速バスに間にあいました。

ひとりの若者は伊江ビーチにテント泊したそうです。「きれいなビーチ」というガイドブックの解説を読んでいたのですが、伊江島出身の学生に「汚いから誰も行かない」と教えられ落ち込んでいました。気さくな学生と「次の夏に伊江島で会いましょう」と話し別れました(あのオープンさは不思議ですね)。沖縄のバスはよく遅れると聞きます。そしてバスが着くのは飛行機が飛ぶ20分前でした。いつも無理が多い僕の計画と「うちなー時間」が合わさってどんな悲劇が起きるか。落ちつかず「ぬーがやー」で買った知花さんの本を読み始め、機内で、中部空港の動く歩道で、名鉄電車で読み、家に着くまでに読み終えました。
その本『燃える沖縄、揺れる安保』の表紙は「象の檻」をバックに遠くをにらむ知花さん。背景は台風の日の荒波でしょうか。一冊で本棚が引き締まる迫力。知花さんに会い、話を聞いたあとで読むのは目の前で語りかけられているようです。

闘争の歴史について理解できたか自信はありません。今の自分に強く響いたのは「経営するスーパーを右翼から守り抜いた」エピソードでした。そこにあるのは運動家が主義や思想を叫ぶ戦いではなく、家族と地域の仲間の生活を守る、というささやかな願いが現れたものです。『譲れないものがある』『特別のことではなく(略)自然にそこに行き着いたのだ』地に足のついた言葉と行動を憧れをもって読みました。世代を超えて土地に根付いた暮らし。限られた伊江島の土地ではなおさら切実でしょう。

チビチリガマでは、これまで拾われてなかった犠牲者の歯を見つけ手に取りました。みなさんが悲惨な現場にいて言葉をなくす中で、自分の想像力のなさに落ち込んでいました。子供の自分なら暗闇と鈍い刃物の痛みを自分のものとして怯えたはずです。僕は大学でコンピューターの勉強をしました。インターネットは身近にあり、刺激の強い情報をうけ麻痺していく感覚がありました。いまの子供はもっとひどいでしょう。小さいころベトナム僧の焼身自殺の写真を見て、映像の怖さとそこまでさせる強い怒りにショックを受けました。一番苦しい死に方は火あぶりだそうですね。この21世紀は自爆テロが日常風景になりました。無関係の人々が犠牲になることに疑問も感じなくなりました。生きた人の首を切る映像をいつでも見れます。

障がい者の家族」セッションで統合教育の話になりました。われわれ福祉施設の職員は、現場では偉そうにしていても、家族や当事者の集まりでは「借りてきた猫」状態になります。仕事では一通り「利用者のため」と言って悩んでいたはずなのに、部外者のように居場所がありません。「統合教育は、自分のような健常の子供への良い影響もある」とコメントしたのは松本さんでしょうか。トークセッションで早坂さんが「対等な視点を持てたのはメンバーたちのおかげ」だと感謝の気持ちを話されたのに続けて言いたかったことがあります。多くが「非」当事者である支援者のことです。ちょうど話題が変わったので、絶対まとまらなかったであろう発言をせずに済みました。名司会、ありがとう。

愛知県豊田市に住んで10年たちます。僕の町は豊田市街の北の猿投というところです。多様な人々が暮らす町だと気づいたのは最近のことです。入所施設が2つ、精神病院も2つ、一昔前ニュースになった外国人4千人が暮らす「保見団地」もあります。大学も2つあります。学生だった7年間に彼らと出会うことはありませんでした。大学を出て重度の脳性マヒの方と知り合いました。行動力のある彼に付き合わされるのは楽しいことでした。何が楽しいか。当時は、行く先で起きるトラブルや周囲の反応を「非日常」を楽しむゲーム感覚なのかと後ろめたい気もしていました。しかし、それは「非」日常ではなく、彼を通して社会の「本当の姿」を見ていたのだと今は思います。

健常者を多数派とするなら、多数派は自分以外を知らなくても生きていけますが、トータルとして世界がどうなっているか知ることは難しい。あらゆることが上手に隠され、現実感を失っていく中で「地に足をつける」の自分が属する「地」がぐらぐらしてることに気づきません。唯一、少数派の目を通して自分のいる世界をトータルで知ることができる気がします。

僕らの世代は、知花さんのような地域社会の良さを部分的に取り入れた物はできても、全部そうなることはもう無いと思います。僕が属するのは、より分散して薄っぺらいものになりますが、たとえば僕の住む猿投のように、多様な人たちを巻き込んで、より豊かなものになる可能性もあります。

青い芝の横田さんの「障害者がいるかぎり健全者は差別者である」という言葉は程度の差はあれ実感として分かります。僕は知的障がいの入所施設で働いています。職場でよく使われる「利用者のために○○してあげる」「生活を組み立ててあげる」「この人がどう生きていくか考える」というセリフは今回のような集まりでは絶対言えません。傲慢ですよね。

ピープルファーストの活動に顔を出して教わったことですが、健常者と障がい者は対等だといって「向き合う」と対等になりません。暮らしを守るために力を出し合い「同じ方向を目指す」仲間として「譲れないもの」のため「特別のことではなく自然に」行動する関係になれると思います。「並んで同じ方向を見つめる」、なんか結婚式の祝辞のようですが、祝辞のようなので、素晴らしい人々との出会いの始めを祝う言葉に代えさせていただいて、報告(というか意見のみ)を終わります。