日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

豊田と白瀬中尉の関係

市役所で印鑑証明もらったついでに、ロビーで地震対策のパンフレットを探した。美術館が過去行った展示のカタログもあり、購入もできる。その中に大判の本で「白瀬中尉の南極探検」を見つけた。日本人で初めて南極大陸に立ったばかりでなく、ハンデ山盛りながらアムンセン・スコットと有名な南極点到達レースを競った英雄です。何年か前に市の資料館で企画があったようだ。でもなんで豊田で?関係者に熱烈なファンでもいるのだろうか、いいなあ、好き勝手に企画できて。

正直にいうと僕は「その時歴史が動いた・第104回・日本人、南極の大地に立つ」からの俄(にわ)かファンで、それ以前は南極点レースの尻馬に乗った少しイタイ人だと思っていた。昔読んだ子供向けの偉人伝などでは「ノリでやってきたけど、寒いしどうしようも無くなって、途中で旗立ててバンザイ言って逃げ戻った」風なヒドイ書かれようだし。

人が初めて南極に行ったのが1890年代で、白瀬さんはその10年ちょっと後に南極を目指した。船長の野村さんによる氷山の白と海の青だけで描かれた水彩画。ほとんど情報がない未知の世界、限られた生物しか生きられない死の世界。隊員たちにとっては別の惑星を旅する気持ちだっただろう。現代それに匹敵する体験は火星旅行くらいしかなさそうだ。日本人が先頭(じゃなくて先頭グループか)に立って未知の世界を目指したことを誇りに思う。

11歳で寺子屋の先生から影響を受け探検に目覚めてから、すべての生活が探検のためのものになる。先生から「探検したいならこれを守れ」と教えられた(健康にいいのか悪いのか分からない)「五つの戒め」

  • 一、酒を飲まない
  • 一、たばこを吸わない
  • 一、茶を飲まない
  • 一、湯を飲まない
  • 一、寒中でも火に当たらない

を生涯貫いた。「探検に耐える体をつくるため」軍隊に入る。

南極探検計画は国や誰かに頼まれたのではなく、自ら支援者を集め国会に予算を請求し(結局出なかった)船を探した。隊員募集要項の「歯力強健にして梅干のタネを噛み砕き得る者」は凍った食料をガリガリと噛んで食べるため。

探検に人生をささげた。探検そのものが終わっても、それは続く。独力で事業をすすめた結果、現在の価値で2億円ちかい借金をひとりで背負うことになった。一時の熱狂が去ると生活は困窮し、各地を転々としたあと戦後になって豊田(挙母町)にたどりつく。その住所は、地図を何度見てもカメダさんの下宿としか思えない、市駅と248の間にある銭湯のとなり。引っ越してきてすぐに亡くなった。85歳。久しぶりに手に入った白米を腹いっぱい食べて腸閉塞、という説もある。

寂しい晩年だったと書いてあるけど、世の偉人たちの人生をトータルで見るとこういうことも多いのかもしれない。名誉や安穏とした生活を望む人ではないだろうし、白瀬さんらしい最期であって、寂しいとか悲しいとか言わなくていいんじゃないか。もう少し周りの人たち(とくに金持ち)が何とかしてやれなかったか、とは思う。