日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

「認知の道」(夜の森編)

ルート発見当時は、時間と気力がゆるすかぎり、行きも帰りも山ルートを使った。分かれ道で廃(すた)れかけた道に入っていって、道に迷ったり(小さい山なので安全)、アラコの工場の敷地に出たり、森の中に沼を見つけたこともあった。書いてて寂しいけど、こんな一人遊びにちょうどよく、疲れるといっても、寒くて風が強い日など平地より快適なこともあった。

むしろ、状況を楽しんでる部分が大きかった。「知識を求めて山を越える」そう思えばつまらない講義も少しは輝いて見える。学校ではコンピューター相手の活動が多い。コンピューターなんて技術文明の先端に半日浸かって、日が傾くころ山へ帰っていく。このギャップ(コンピューター⇒山)が新鮮でよい。

しかし、夕方になって少しでも暗くなると、もう弱気だった。外が薄暗いころには、森の中は真っ暗になってる。暗いのは苦手じゃないけど、夜の森は別で、怖い。たぶんこれは野生動物の脅威に対する本能的な反応で、誰でもそうじゃないかな。たぶん現代でも、夜の森で優位なのは野生動物のほうだろう。夜の海も怖い。

一人で山道を歩いている時など、両側の森に視線をやることすら嫌で、前方か下を向く。何もいないのは分かっていても、夜の森には何かの「気配」がたちこめている。というのも本能が作るイメージなんだと分かってはいる。むしろ、そう恐れてばかりだと、ありもしないものを心が勝手に作り出しそうな気がして怖い、自分が怖い。一番見たくないもの、恐れているものを自分は知っている。それが暗闇の中に浮かんで来そうだ。

↑で、こう長々言い訳するほど弱虫なのも情けなく、夜の山越えルートを踏破する目標を立てた。きっかけは幾つかあった。もともと僕は暗い場所が好きな性質だったし、数少ない特技は「夜目が利く」ことでもあった。自分がやらなきゃ、できなきゃダメだと思った。もう一つ、ビレバンで、タイトルは忘れたけど、深夜森に入り、見晴らしのいいところで日の出に向かって「ホーミー」を合唱する「暗闇愛好家」についての本を読んだことがある。ホーミーは無理だが仲間意識を感じた。あっちもがんばってる、負けられない。

月の出ている日を選んだけど、森の中にほとんど光は入らない。枝や葉のすき間から空がのぞいて、道に沿って淡い光が前方へつづく。そのほかは、闇を通り越してデジタルビデオみたいなノイズ入りの黒かグレーに塗りこめられている。あえて灯りを持ってこなかった。「愛好家」たちはライトを持っていたけど、理想的には何も持たないことだ。しかし半端でなく怖い。異常な状況に頭はパニックで、目を見開き、呼吸は速くなる。追われる小動物の気分だ。途中はよく覚えてないけど、かすかな月明かりと道の記憶を手掛かりに1キロ少しを歩き、森を抜けた。何やってんだろ俺、訳わからん自分が、とか言いながら歩いてたんだろう。たまに、そういうことになる。

興奮状態でゼミ室にたどり着くとS森さんがいた。なぜ、クツとズボンが泥まみれで、肩に葉っぱが付いているのか聞かれれば、経緯を説明せねばならない。こちらとしても、この地味な偉業を伝えたくてしょうがないが、相手が悪かった。アドレナリンが収まらないので、もしも極度に引かれたら、涙がこぼれそうだ。もしでなく、確信を持って引くだろう。耐えるんだ。

# やっさん 『分かる分かる。そういう偉業は他人に言っても今いちぴんと来てくれないんよな。暗闇の山はほんとビクビクしてしまうよな。枝を踏んでうひゃーと驚いたり。それにしても明かり無しでよう行ったな。凄い凄い。』(2005/2/5 0:56)

# あらき 『これ書いたあと、駐車場に近い夜の森をながめたけど、今から入れって言われても絶対むりだと思ったな。小さな山なんだけどな。』(2005/2/5 8:42)