日記など 2002年から

福祉の話題が多いです。東京都の西部・多摩地区が行動範囲です。

さよならエース(3)未練を「塗りつぶす」

同時多発テロの2001年の1月に免許を取った。22歳。車を買ったのは8月で、夏休みに改造をして8月20日ごろに旅行に出た。

大阪で車を買って船に乗せて高知へ帰った。マニュアル車は学校以来乗ってなくて、フェリー「ニューかつら」の2階駐車場へ上がる坂の前で、後ろのスポーツカーの兄ちゃんに「坂道下手なんで落ちるかもしれません」と言って待ってもらった。

初めはエンジンもかからなかった。放置されていたせいもあるけどクセもある。少しアクセルを踏みつつ回すとかかる。写真の悪そうな友人に運転を代わって後ろから付いていったことがある。心配だったけど「マニュアルくらい楽勝ですよ」と言うので貸した。信号待ちが長いな、と思っているとリヤガラスをたたいて助けを求めている。エンジンがかからない。切れた状態でエアコンとステレオを付けたままキーを回していて、バッテリーが上がったらしい。うしろは大渋滞で、JAF呼びますか、と大騒ぎしていた。すぐに、よい子も悪い子も面倒くさがりも仲良く「押しがけ」をやった。「マニュアル」って5速シフトとかそういう意味じゃないよ。そのまま「手動」なんだ。

雨に降られた種子島から鹿児島港に戻ると空き地に駐めた車が待っていてくれた。京都の渋滞に参って車を残し大阪の友人に会いに行った。都会を歩いて疲れて暗くなって、車を駐めた場所が分からない。桂川ぞいの路駐の列に白い丸い車体が見えたとき、心からホッとした。暖かいわが家だ。

琵琶湖の駐車場で月を眺めていると友人からメールで「ラジオをつけろ」という指示がきた。音声で聞くテロの実況は怖く「これまでのような生活は無くなる」予感がする。寝られないので三重まで夜通し走り白子の海で日の出を見た。銀河鉄道999のメーテルが「死地に赴くときは萎縮せず肉を食え」という風なことを言っていた。途中のローソンでトンカツ弁当を買って食べた。

理解されないので人には話していないことがある。ある夏の帰省帰り、眠くなって名阪国道を降りた。静かな場所を探して山の中をしばらく走り、道路わきでヘッドライトを付けたまま寝てしまった。山深い、奈良の月ヶ瀬村だった。山の爽やかな朝。ヘッドライトが1.5Vの豆電球くらい弱っていた。当然エンジンはかからない。

誰も来ない山奥の道を、「押しがけ」の出来る下り坂まで、まず駐車帯でUターンしてから500メートルをひとりで押した。意外に軽く押せるんだけど「それはナチュラルじゃないよね」(大学の教官によく言われたセリフ)。実際はたまに車が走っていた。助けを求めたくなかった。恥ずかしいのもあるけど、車のトラブルは自分に向けられた問題提起だった。ありあわせの物でどう解決するのか。

ハンドルとドアを押さえて少しづつ進む。短いが緩やかな斜面は少し下がって助走をつけて越えた。集落の手前の30メートルほどの坂が最初で最後のチャンスだったが、この技術は習ってない。ぼくの運動神経ではチャンスを生かせず坂の下で止まってしまう。やるだけのことはやった。車も許してくれるだろう。

6万円で買った廃車寸前のライトエースは、富士山も御岳も登り西日本を一周し名古屋東京を5往復した。見た目のダサさも作りのチープさも性能の残念さも、人は笑うだろうが、僕が乗ればどんな車より楽しい。ライトを付けっぱなしにしたのは僕の落ち度だが、人にゆだねると車のボロさを言われる。それはしたくない。ダサさもチープさも残念さも自分に似ている。物の良さは「持ち主にふさわしいかどうか」だと思う。はじめ相対的なものだったのが「絶対的」な良さになって、それを使って自分を引き上げようとする。醜さとはそのズレのことだと思う。香川でヒッチハイクした走行距離120万キロの冷蔵車と優しすぎる運転手の関係は美しい。

車とはそういう関係だったので、手放すと決めたけど、車屋に予約を入れられない。悪友にペイントしてもらった。汚くするつもりはなかった。ライトエースといえばクリーニング屋の車。日陰の存在として生まれ、つつましくしてきたので最後に華やかにしてあげようと思った。

市の図書館へ行ったとき、市駅のロータリーに車を駐めた。帰りに遠くから車体が見えたとき「もう乗れない」と思った。そこにわが家はなかった。